徐世昌
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徐 世昌
Xu Shichang


中華民国
第3代 大総統
任期1918年10月10日1922年6月2日
中華民国
第5・7代 国務卿
任期1914年5月1日 - 1915年10月27日1916年3月21日 – 1916年4月22日
大総統袁世凱

出生1855年10月20日
咸豊5年9月10日
河南省衛輝府汲県
(現:新郷市衛輝市
死去1939年民国28年)6月5日
中華民国 天津特別市

徐世昌
職業:政治家学者実業家
各種表記
繁体字:徐世昌
簡体字:徐世昌
?音:Xu Shich?ng
ラテン字:Hsu Shih-ch'ang
注音二式:Xu Shich?ng
和名表記:じょ せいしょう
発音転記:ション シーリン
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徐 世昌(じょ せいしょう)は、清末民初政治家。第3代中華民国大総統は卜五、号は菊人、東海など。引退後は退耕堂とも称した。祖籍は河南省衛輝府汲県
青年期

代々官僚を輩出する名家に生まれたが、徐世昌の父が早世したため家は零落した。徐世昌もまた科挙に及第し官僚となることを目指したが学費が無いため勉強の傍らで河南省各地の官僚の書記や、郷学の教師になっていた。そうした中、光緒8年(1881年)に郷試に合格した。

徐世昌と袁世凱は家同士に元来関係を有し、2人は早くから知り合っていた。当時浪人時代をすごし粗暴な袁世凱と、穏やかで学問を好んだ徐世昌とは性格を大きく異にしたが親交を結び、一説には袁世凱が徐世昌の学資を援助していたとも言われる。この2人の関係は袁世凱が死去するまで続いた。
清朝の官僚への登用

光緒13年(1886年)に徐世昌は科挙に及第し、エリートコースとされる翰林院に配属されたが、途中母の喪に服するなどしてその出世は遅々としたものであった。徐世昌が頭角を現したのは光緒22年(1895年)、袁世凱により編成された新建陸軍の参謀に就任してからである。徐世昌は文官であったため軍事知識に乏しく参謀の任には不適任といえた。しかし袁世凱にとっては正学を治め科挙に及第し(袁世凱は科挙は合格していない)、伝統的な教養もあり、かつ古くから親交を有する徐世昌が身近に助言する立場とすることは、袁世凱自身が清廷で政治的立場を強化するに大きな意義を有した。その後、袁世凱の昇進にともない徐世昌も東三省総督、郵伝部尚書など要職を歴任した。

宣統元年(1909年)、袁世凱は摂政王となった宣統帝の父醇親王との対立から失脚した。袁世凱による北洋軍を解体する意見も出され、徐世昌もまたその弾劾の対象となった。しかし当時清朝で唯一の有効な軍事力となっていた北洋軍を解体することはできず、その北洋軍の諸将と友好的な関係を有す唯一の高級官僚である徐世昌を下野させることもできず、徐世昌は中央政界にとどまり、河南省で隠棲する袁世凱との連絡を取り続けた。

宣統3年(1911年)5月には内閣協理大臣(副首相)に任命され、さらに10月には軍諮大臣となり、太保の称を賜った。
袁世凱の中華民国

辛亥革命の後、袁世凱が中華民国政権を掌握したが、徐世昌は自らが清朝旧臣であることを理由に要職への就任を避け、相談役的地位に終始した。袁世凱の度重なる要請で国務卿に就任したこと二度あるが、いずれもすぐに辞職している。民国4年(1915年)12月の袁世凱の皇帝就任宣言に際しては、時期尚早として反対した。
中華民国大総統就任中華民国大総統時代の徐世昌

民国5年(1916年)6月に袁世凱が死去すると、徐世昌は袁世凱の故郷である河南省に赴き、数ヶ月間服喪している。その後も政権から距離を置いていたが、軍閥同士の抗争の調停などを行っている。


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