後鳥羽天皇
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後鳥羽天皇
後鳥羽院像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)
第82代天皇
在位期間
1183年9月8日 - 1198年2月18日
寿永2年8月20日 - 建久9年1月11日
即位礼1184年9月4日元暦元年7月28日
大嘗祭1184年12月22日(元暦元年11月18日
元号寿永
元暦
文治
建久
時代鎌倉時代
摂政近衛基通松殿師家→近衛基通
九条兼実
関白九条兼実→近衛基通
先代安徳天皇
次代土御門天皇

誕生1180年8月6日治承4年7月14日)午時
五条町亭
崩御1239年3月28日延応元年2月22日
隠岐
大喪儀1239年6月19日(延応元年5月16日
陵所大原陵、隠岐海士町陵(火葬塚)
漢風諡号顕徳院
1239年5月(延応元年)諡号勅定
追号後鳥羽院
(後鳥羽天皇)
1242年8月5日仁治3年7月8日)追号勅定
諱尊成
別称良然(法名)
隠岐院
元服1190年2月9日建久元年1月3日
父親高倉天皇
母親坊門殖子(七条院)
中宮九条任子(宜秋門院)
子女下記参照
皇居平安宮
閑院
大炊御門殿
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後鳥羽天皇(ごとばてんのう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:後鳥羽󠄀天皇、1180年8月6日治承4年7月14日[1]〉- 1239年3月28日延応元年2月22日[2][3])は、日本の第82代天皇(在位:1183年9月8日寿永2年8月20日〉- 1198年2月18日建久9年1月11日〉)。は尊成(たかひら・たかなり)。

高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。

文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代1221年承久3年)に、承久の乱鎌倉幕府執権北条義時に対して討伐の兵を挙げたが敗北し隠岐配流され、1239年延応元年)に同地で崩御した。
経歴
神器なき即位

寿永2年(1183年)7月25日、木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れた。尊成親王(後鳥羽天皇)の生母・坊門殖子(七条院)の継母は平清盛の娘であり、親王の乳母・高倉範子(刑部卿三位局)の夫である能円は清盛の妻・平時子の異父弟であるため、平家が尊成親王を西国に連れていく可能性があった。事実かどうかは判断できないものの、『平家物語』にも能円が妻と親王を連れて落ちようとした際に範子の弟である藤原範光に阻止されて能円一人で落ちていく場面がある[4]。これに従わなかった後白河法皇公卿の間では平家追討を行うべきか、それとも平和的な交渉によって天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで意見が分かれた。この過程で義仲や源頼朝への恩賞問題その他政務の停滞を解消するために、安徳天皇に代わる「新主践祚」問題が浮上していた。8月に入ると、後白河法皇は神器無き新帝践祚と安徳天皇に期待を賭けるかを卜占に託した。結果は後者であったが、既に平氏討伐のために新主践祚の意思を固めていた法皇は、再度占わせて「吉凶半分」の結果をようやく得たという。法皇は九条兼実にこの答えをもって勅問した。兼実はこうした決断の下せない法皇の姿勢に不満を示したが、天子の位は一日たりとも欠くことができないとする立場から「新主践祚」に賛同し、継体天皇は即位以前に既に天皇と称し、その後剣璽を受けたとする先例があると勅答している(『玉葉』寿永2年8月6日条。ただし『日本書紀』にはこうした記述はなく、兼実の誤認と考えられている)。


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