後鳥羽天皇
[Wikipedia|▼Menu]

後鳥羽天皇
後鳥羽院像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)
第82代天皇
在位期間
1183年9月8日 - 1198年2月18日
寿永2年8月20日 - 建久9年1月11日
即位礼1184年9月4日元暦元年7月28日
大嘗祭1184年12月22日(元暦元年11月18日
元号寿永
元暦
文治
建久
時代鎌倉時代
摂政近衛基通松殿師家→近衛基通
九条兼実
関白九条兼実→近衛基通
先代安徳天皇
次代土御門天皇

誕生1180年8月6日治承4年7月14日)午時
五条町亭
崩御1239年3月28日延応元年2月22日
隠岐
大喪儀1239年6月19日(延応元年5月16日
陵所大原陵、隠岐海士町陵(火葬塚)
漢風諡号顕徳院
1239年5月(延応元年)諡号勅定
追号後鳥羽院
(後鳥羽天皇)
1242年8月5日仁治3年7月8日)追号勅定
諱尊成
別称良然(法名)
隠岐院
元服1190年2月9日建久元年1月3日
父親高倉天皇
母親坊門殖子(七条院)
中宮九条任子(宜秋門院)
子女下記参照
皇居平安宮
閑院
大炊御門殿
テンプレートを表示

後鳥羽天皇(ごとばてんのう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:後鳥羽󠄀天皇、1180年8月6日治承4年7月14日[1]〉- 1239年3月28日延応元年2月22日[2][3])は、日本の第82代天皇(在位:1183年9月8日寿永2年8月20日〉- 1198年2月18日建久9年1月11日〉)。は尊成(たかひら・たかなり)。

高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。

文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代1221年承久3年)に、承久の乱鎌倉幕府執権北条義時に対して討伐の兵を挙げたが敗北し隠岐配流され、1239年延応元年)に同地で崩御した。
経歴
神器なき即位

寿永2年(1183年)7月25日、木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れた。尊成親王(後鳥羽天皇)の生母・坊門殖子(七条院)の継母は平清盛の娘であり、親王の乳母・高倉範子(刑部卿三位局)の夫である能円は清盛の妻・平時子の異父弟であるため、平家が尊成親王を西国に連れていく可能性があった。事実かどうかは判断できないものの、『平家物語』にも能円が妻と親王を連れて落ちようとした際に範子の弟である藤原範光に阻止されて能円一人で落ちていく場面がある[4]。これに従わなかった後白河法皇公卿の間では平家追討を行うべきか、それとも平和的な交渉によって天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで意見が分かれた。この過程で義仲や源頼朝への恩賞問題その他政務の停滞を解消するために、安徳天皇に代わる「新主践祚」問題が浮上していた。8月に入ると、後白河法皇は神器無き新帝践祚と安徳天皇に期待を賭けるかを卜占に託した。結果は後者であったが、既に平氏討伐のために新主践祚の意思を固めていた法皇は、再度占わせて「吉凶半分」の結果をようやく得たという。法皇は九条兼実にこの答えをもって勅問した。兼実はこうした決断の下せない法皇の姿勢に不満を示したが、天子の位は一日たりとも欠くことができないとする立場から「新主践祚」に賛同し、継体天皇は即位以前に既に天皇と称し、その後剣璽を受けたとする先例があると勅答している(『玉葉』寿永2年8月6日条。ただし『日本書紀』にはこうした記述はなく、兼実の誤認と考えられている)。10日には法皇が改めて左右内大臣らに意見を求め、更に博士たちに勘文を求めた。そのうちの藤原俊経が出した勘文が『伊呂波字類抄』「璽」の項に用例として残されており、「神若為レ神其宝蓋帰(神器は神なので(正当な持主のもとに)必ず帰る)」と述べて、神器なき新帝践祚を肯定する内容となっている。

新帝の候補者としては義仲が北陸宮を推挙していたが、後白河法皇は安徳天皇の異母弟である4歳の尊成親王を即位させることに決めた。これは丹後局の進言を容れたものだという。安徳天皇の異母弟のうち、尊成の同母兄でもある守貞親王乳母平知盛正室治部卿局であったこともあって安徳天皇と共に平家に西国に連れ出され、惟明親王は法皇の側妾坊門局の姪を母親としていたが唯一の後見人と言える法皇の寵臣平信業(坊門局の兄で親王の大伯父にあたる)が既に死去していたことで候補から消えたと考えられている[5]

8月20日、尊成親王は後白河法皇の院宣を受ける形で践祚し(後鳥羽天皇)、その儀式は剣璽渡御を除く譲国の儀に倣って行われた。即位式も元暦元年(1184年)7月28日に、やはり剣璽なきまま行われた。

安徳天皇が在位のまま後鳥羽天皇が即位したため、寿永2年(1183年)から平家滅亡の文治元年(1185年)までの2年間は両帝の在位期間が重複する。壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、神器のうち宝剣だけは海中に沈んだままついに回収できず、文治3年(1187年)9月27日に佐伯景弘から宝剣探索失敗の報告を受けて捜索は事実上終結した。建久元年(1190年)1月3日に行われた天皇の元服の儀も剣璽を欠いたまま行われた。その後は、平家都落ちの直前に伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を形代の剣として当面の間宝剣の代用とすることになり、建久9年(1198年)の土御門天皇への譲位もこれで乗り切った。そして承元4年(1210年)の順徳天皇践祚に際して、後鳥羽上皇はこの形代の剣を以後は正式に宝剣とみなすこととした。それでも2年後の建暦2年(1212年)になって検非違使藤原秀能を今一度西国に派遣して宝剣の探索にあたらせている。

皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま登極した後鳥羽は、このことが耐えがたいコンプレックスとなって苛まされ続けたであろうことは想像に難くない[注 1]。また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があった[注 2]。後鳥羽はこのひけめを克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある[8]
治世

建久3年(1192年)3月までは、後白河法皇による院政が続いた。後白河院の崩御後は関白・九条兼実が朝廷を主導した。兼実は源頼朝への征夷大将軍の授与を実現したが、後に頼朝の娘の入内問題から後鳥羽天皇と関係が疎遠となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:100 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef