後醍醐天皇
文観開眼『絹本著色後醍醐天皇御像』(清浄光寺蔵、重要文化財)
第96代天皇
南朝初代天皇
在位期間
1318年3月29日 - 1339年9月18日
文保2年2月26日 - 延元4年8月15日
即位礼1318年4月30日(文保2年3月29日)
大嘗祭1318年12月15日(文保2年11月22日)
元号文保
元応
元亨
正中
嘉暦
元徳
元弘
建武
延元
時代鎌倉時代
南北朝時代
関白二条道平→一条内経→九条房実
→鷹司冬平→二条道平→近衛経忠
→鷹司冬教→(廃止)
先代花園天皇
次代光厳天皇
光明天皇
恒良親王
後村上天皇[注釈 1]
誕生1288年11月26日(正応元年11月2日)
崩御1339年9月19日(延元4年8月16日)
吉野行宮
陵所塔尾陵
追号後醍醐院
(後醍醐天皇)
1339年10月11日(延元4年9月8日)追号勅定
諱尊治
別称吉野院、元徳院、元応帝
元服1304年1月27日(嘉元元年12月20日)
父親後宇多天皇
母親五辻忠子
皇后西園寺禧子(中宮→皇太后宮、後京極院)
中宮c子内親王(新室町院)
女御二条栄子
子女
一宮[注釈 2]:尊良親王(中務卿、一品親王、上将軍)
二宮:世良親王(大宰帥)
三宮:護良親王(座主、征夷大将軍)
四宮:宗良親王(座主、征夷大将軍)
五宮:恒良親王(皇太子)
六宮:成良親王(征夷大将軍)
七宮:義良親王(皇太子、後村上天皇)
八宮:懐良親王(征西大将軍、明朝日本国王)
懽子内親王(伊勢神宮斎宮)
祥子内親王(最後の伊勢神宮斎宮)他
皇居二条富小路内裏
吉野行宮
親署
治天は元亨元年12月9日以降[1](1321年12月28日)
テンプレートを表示
後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288年11月26日〈正応元年11月2日〉 - 1339年9月19日〈延元4年/暦応2年8月16日〉)は、日本の第96代天皇、および南朝初代天皇(在位:1318年3月29日〈文保2年2月26日〉 - 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉[注釈 3]、治天:1321年12月28日〈元亨元年12月9日[1]〉 - 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉)。諱は尊治(たかはる)。 大覚寺統の天皇。天皇による親政を理想としクーデターにより武家政権の鎌倉幕府を打倒し建武の新政を行った。その後軍事力の中核であった実子を粛清した事と失政により失脚。一地方政権の主として生涯を終える。建武の新政は2年半で崩壊し、足利氏の武家政権に戻ることとなり、朝廷の支配力は鎌倉時代以上に弱まることとなる。 両統迭立により、実子に皇位を譲位できず、上皇になって院政を敷いて権力を握れなかった後醍醐天皇は、鎌倉幕府の両統迭立を壊すために、倒幕運動を行った[2]。元弘の乱で鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏との戦い(建武の乱)に敗れたため、大和吉野へ入り[3]、南朝政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の室町幕府が擁立した北朝との間で、南北朝の内乱が勃発した。尊氏が征夷大将軍に就任した翌年、吉野で崩御した[4]。 先代の花園院は、後醍醐天皇を「王家の恥」「一朝の恥辱」と日記に書いている[5]。また、同時代の公卿からも否定的な評価を受けている。吉田定房は後醍醐天皇の討幕運動を否定し、「天嗣ほとんどここに尽きなんや(天皇の跡継ぎは尽きてしまうのではないか)」と諫めている[6]。北畠顕家は、後醍醐天皇の政策を諫める上奏を行っている[6]。また、同時代の中級実務貴族からの評判も悪く、後醍醐天皇は彼らの協力を得られず、政治的に厳しい立場に追い込まれることになる[2]。また、江戸中期を代表する政治家新井白石は「読史余論」で、「後醍醐中興の政、正しからず(建武の新政は正しいものでは無い)」と、後醍醐天皇に厳しい評価を与えており、同時代の三宅観瀾は「中興鑑言」で、頼山陽は「日本外史」で遊興に明け暮れ、私利私欲に走る後醍醐天皇を批判している[6]。一方で、優れた統治者の一人であると室町幕府・南朝の後継指導者から評される[注釈 4]。 室町幕府・南朝両政府の政策は、建武政権のものを多く基盤とした。
概要