後醍醐天皇宸翰天長印信(?牋)
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『後醍醐天皇宸翰天長印信(?牋)』
作者本文:後醍醐天皇
料紙装飾・奥書:文観房弘真
完成1339年7月23日延元4年/暦応2年6月16日
種類彩箋墨書(竹紙蝋箋金泥装飾)、宸翰様
寸法33.3 cm × 93.0 cm (13.1 in × 36.6 in)
所蔵醍醐寺京都府京都市
所有者醍醐寺
登録00039
ウェブサイトwww.daigoji.or.jp/archives/cultural_assets/NA002/NA002.html

『後醍醐天皇宸翰天長印信(?牋)』(ごだいごてんのうしんかんてんちょういんじんろうせん)は、南北朝時代後醍醐天皇が筆写し、その護持僧文観房弘真が料紙装飾・奥書した、真言宗文書・書作品・密教美術。通称は『天長印信』(てんちょういんじん)[1]国宝醍醐寺蔵。宸翰とは天皇の直筆文を指し、書作品としても優れたものが多いことから、「書の王者」とも呼ばれる。本作品は、それらに冠たる荘厳な書蹟と評される。特に、和様(日本独自の書風)に中国の禅林墨跡の書風を交えた宸翰様(しんかんよう)と呼ばれる書風の代表例である。また、?牋(文様が磨き出された紙)と金泥による料紙装飾も名高い。崩御2か月前の作のため史料としても重要。
概要

本来の『天長印信』とは、天長3年(826年3月5日に弘法大師空海が高弟の真雅に授けたと伝わる印信(いんじん、奥義伝授の証明書)のことである。現代の研究ではこの印信は偽書とされるが、南北朝時代には空海の真書と広く信じられており、醍醐寺座主(真言宗醍醐派の長)かつ三宝院流(醍醐派の最有力法流)正嫡のみが相伝できる至宝だった。座主ではあるが報恩院流の文観は原本を相伝できなかったので、主君である後醍醐天皇に写しの製作を依頼し、醍醐寺の新たな至宝としたのが本作品である。後醍醐による本文は延元4年/暦応2年6月15日1339年7月22日)成立で、翌6月16日(西暦7月23日)に文観が奥書を付し完成した。ただし、同月25日・26日にも奥書に追記が加えられている。原本や古い副本は散逸したため、『天長印信』は本作品のみが残った。大正3年(1914年4月17日重要文化財指定。昭和26年(1951年6月9日、国宝指定。

印信の内容は真言宗の経典『瑜祇経』の真髄を説くものとなっており、同じく『瑜祇経』に由来する愛染明王に帰依した後醍醐の意に通じるものとなっている。「宸翰」(しんかん)とは天皇の直筆文を指し、歴代天皇は能筆家が多いことから「書の王者」とも言われる。特に、皇統が大覚寺統持明院統の二つに分裂した時期前後の宸翰の書風を、「宸翰様」(しんかんよう)と呼び、禅僧の墨跡の影響が見られ、両統の諸帝が切磋琢磨したため高度な技術を有した。大覚寺統の後醍醐天皇は、持明院統の伏見天皇と共に宸翰様を代表する歴朝最高の能書帝の一人とされる。本作品は崩御二ヶ月前という時期にもかかわらず、「覇気横溢」(はきおういつ)と称される書風はいささかも衰えず、全盛期の荘厳さ・雄壮さがそのまま表現されていると評される。また、特に本作品の筆致に関しては、空海への深い敬慕から、「三筆」の一人に数えられる能書家としての空海(大師流)からの影響が見られるとも言う。

また、本作品は料紙装飾も密教美術として評価が高い。文観は後醍醐の仏教政策上の第一の側近であっただけではなく、中世の代表的な画僧の一人でもあり、後醍醐・後村上朝の様々な仏教美術作品を監修した。本作品の国宝指定名称に含まれる?牋(ろうせん)、あるいは蝋箋とは、版木で文様を磨き出された紙のことで、本作品には中央に有翼の仙人の図像がある。さらに、金泥で左右に龍文様(皇帝の象徴)が描かれ、四方に宝珠文様(仏教の福徳および文観自身の象徴)が張り巡らされている。また、舶来の竹紙製の蝋箋が用いられていることから、紙史研究上も注目される資料である。本場中国の宮廷・官庁では、竹紙は保存性の低さから中下級に分類される用紙だったのが、日本では装飾性・希少性の高さから最上級の料紙として用いられるという逆転現象が起きたが、本作品はその代表例である。

崩御2か月前という時期に、南朝の元首とその腹心によって書かれたものであるため、美術作品としてだけではなく、中世政治史における史料としても貴重である。第一に、当時少なくとも真言密教界の一部で、後醍醐天皇が空海の再来と見なされていたことがうかがえる。これには、後醍醐の側から王権強化を図ったという説と、真言僧の側から後醍醐との関係強化を望んだという説がある。第二に、醍醐寺座主や、かつて後醍醐父の後宇多天皇が新設した「東寺座主」(当時の真言宗の事実上の盟主)に、文観が補任されたと書かれている。ここから、天皇と同様に醍醐寺・東寺も南北両朝それぞれ独自に長がいたことや、後醍醐の宗教政策は特異なものではなく父の路線を継承するものだったことが推測される。第三に、『天長印信』原本を含む醍醐寺の秘宝をたびたび文観は借り受け、京都と吉野を往復している。しかし、足利尊氏の護持僧で北朝側の醍醐寺座主だった賢俊と揉めた形跡が見られない。この他いくつかの同時代史料からも考えれば、文観と賢俊が激しい派閥抗争をしたという通説に反し、実際は両者の関係は険悪なものではなく、醍醐寺として南北どちらが勝利しても良いように二人で巧みな対応を取っていたのではないかという主張もある。
作者後醍醐天皇筆『四天王寺縁起〈根本本/後醍醐天皇宸翰本〉』(国宝四天王寺蔵)

天皇の直筆文を宸翰(しんかん)と言うが[2]、歴代天皇には、空海橘逸勢と共に三筆に数えられる平安時代初期の嵯峨天皇や、伏見院流の祖である鎌倉時代伏見天皇など、能書家も多い。そのため、宸翰は王者の書にして「書の王者」[2]と称される。後醍醐天皇もまた代表的な能書帝の一人であり[3]、本作品を含め3点の書作品が国宝に指定されている[4][5]。後醍醐前後の諸帝の書風のことを特に宸翰様(しんかんよう)と呼び、伏見と共にその筆頭とされるのが後醍醐である[6][7]。宸翰様の特徴は、中国の宋風・禅風の書法を、和様に持ち込んだことであり[6][8]皇統が後醍醐ら大覚寺統と伏見ら持明院統に分かれた時期のため、両統の諸帝は競うように切磋琢磨した[9]

好敵手の伏見の書風が「変幻自在」[10]と評されるのに対し、後醍醐の書風は「覇気横溢」[11](はきおういつ)と帝王たる威風を示すものと評される[7][11]。後醍醐の書には「宋の四大家」の一人黄庭堅の書風を好んだ臨済宗宗峰妙超(大燈国師)の墨跡からの影響が見られるという[11]


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