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日本の政治家後藤猛太郎ごとう たけたろう
生年月日1863年10月30日
出生地 日本 土佐国高知城下
(現高知県高知市)
没年月日 (1913-12-04) 1913年12月4日(50歳没)
前職外務省御用掛
称号従五位
配偶者後藤ヨイ
子女長男・後藤保弥太
親族父・後藤象二郎(逓信大臣)
義弟・岩崎弥之助(貴族院議員)
義弟・大江卓(衆議院議員)
貴族院議員
在任期間1911年7月10日 - 1913年12月4日
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後藤 猛太郎(ごとう たけたろう、1863年10月30日(文久3年9月18日[1]) - 1913年(大正2年)12月4日[2][3])は、明治時代、日本で初めて南洋群島を探検した人物。日本活動フィルム会社(日活の前身)の初代社長。後藤象二郎の二男。貴族院議員。伯爵。「天下のならず者」と自称していた[4]。 1870年(明治3年)、8歳より外国人宅に出入りして外国語を学ぶ。オランダへ留学するが、放蕩して多額の借金を負ったことなどから、1888年(明治21年)6月、父・象二郎から廃嫡・分籍を受け、佐藤の姓を名乗らされた。1896年(明治29年)、改心の傾向がみられるとして勘当を許され、復籍した[5][注釈 1]。 外務卿井上馨の助力によって、外務省御用掛で通訳官となる。1884年(明治17年)、「南洋ミクロネシアのマーシャル諸島内の「ラエー環礁」において、日本人漂着者が現地人に殺害され食べられたらしい」という情報がイギリス捕鯨船からもたらされたことにより、後藤猛太郎と鈴木経勲が、南洋漂流邦人殺害事件の調査に派遣される。イギリス捕鯨船の「エーダ号」に乗ってマーシャル諸島に辿りつき、現地のカブワ・ラーボン大酋長に謁見して調査目的を説明し、日本人漂流者が殺害されたと言われるラエ島で調査を行う。 その後マーシャル諸島の日本領有を独断で宣言し、現地に日章旗を建てるとともに、殺害犯としてラエ島のキン・ラリエ酋長(一説には酋長の代理人)ら2名を逮捕して横浜に連行する(ただし、マーシャル諸島の領有宣言は、国際問題となることを疎んだ日本政府によって却下される[注釈 2] 新潟で銅山を経営し、新潟の芸妓との間に長男後藤保弥太が生まれる。その後、銅山経営が破綻し、当時36万円の負債をかかえ、親友の杉山茂丸邸に居候する。 1897年(明治30年)8月4日、父象二郎が薨去したため、襲爵(伯爵)を仰せ付けられる。1897年(明治30年)12月、品川馬車鉄道会社を設立し、その社長となる。1899年(明治32年)6月19日、品川馬車鉄道が東京馬車鉄道に吸収合併される。1911年(明治44年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され[6]、死去まで在任した[3][7]。 台湾に渡り、後藤新平の私設秘書となる。1912年(明治45年)3月、日本活動フィルム株式会社(日活の前身)を設立してその初代社長となる。1912年(大正元年)9月10日、株式市場で「活フイ」と略称されたため、「これから発展しようという会社が“フイ”になってはいかん」と縁起を担ぎ、社名を「日本活動冩眞株式會社」と改名。略称「日活」とした。 1913年(大正2年)薨去。享年51。墓所は青山霊園(1イ13-24)。
来歴
生い立ち(左右馬)の二女(磯子)。象二郎の長男の後藤貞馬が夭逝した為、猛太郎は、事実上の長男として育てられた。
前半生
襲爵以降
栄典
1896年(明治29年)11月20日 - 従五位[8]
家族
祖父:後藤正晴
父:後藤象二郎
母:寺田剛正(左右馬)の二女(磯子)
兄:後藤貞馬(夭逝)
本人:後藤猛太郎
妻:若山鉉吉の養女・ヨイ
長男:後藤保弥太
嫡孫:後藤省三
二男:後藤良輔
三男:後藤三郎
四男:川添紫郎(川添清麿養子)
紫郎の妻:原智恵子(離婚)
孫(長男):川添象郎(別名・川添象多郎)
孫(二男):川添光郎
曾孫:川添隆太郎
長女:雨宮良孝の妻
二女:伊勢重の妻
弟:後藤六弥
妹:岩崎弥之助男爵の妻(早苗)
妹:大江卓の妻(小苗)
妹:若山鉉吉