後藤 次男1950年撮影
基本情報
国籍 日本
出身地熊本県熊本市
生年月日 (1924-01-15) 1924年1月15日
没年月日 (2016-05-30) 2016年5月30日(92歳没)
身長
体重175 cm
71 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション内野手、外野手
プロ入り1948年
初出場1948年
最終出場1957年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
旧制熊本県立工業学校
熊本鉄道管理局
法政大学
大阪タイガース (1948 - 1957)
監督・コーチ歴
大阪タイガース
阪神タイガース (1958 - 1959, 1966 - 1969, 1978)
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後藤 次男(ごとう つぐお、1924年1月15日 - 2016年5月30日)は、熊本県熊本市出身のプロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。
愛称は「クマさん」。 熊本県立工業学校在学中の1939年、二塁手として春夏連続で甲子園に出場。1941年には主将兼捕手として春の選抜に出場し、ベスト4まで勝ち進んだ。卒業後は熊本鉄道管理局を経て法政大学に進学し、東京六大学リーグでは4番打者として活躍。リーグ通算32試合出場、121打数30安打、打率.248。 母校・法大の先輩である若林忠志監督に勧誘され、大学卒業後の1948年に大阪タイガースへ入団。契約金は12万円で、当時では破格の金額であった。ルーキーながら二塁手や外野手として全試合に出場し、同年に記録した129安打は新人での球団史上最多安打であった[1]。2年目の1949年からは4年連続で3割を超える打率をマークし、主にダイナマイト打線の3番打者として活躍。守備では投手と遊撃手以外の7ポジションを経験しており、藤村富美男の8ポジションに次いで多く[2]、ユーティリティプレイヤーの先駆者的存在であった。本当は中学時代にやっていた「捕手で生涯を全うしたかった」らしいが、夢は叶わなかった。当時36インチ(91.4cm)のバットを使用しており、藤村が「物干し竿」と呼ばれた長尺バットを使うまでは球界一長いバットであった。その後藤でも「物干し竿」はうまく振り抜けなかった[3]。温厚な人柄と風貌から「クマさん」の愛称で親しまれ、3年目の1950年には8打席連続安打で当時の日本記録である連続塁打25を打ち立て、内訳は5本塁打、2二塁打、1単打であった[4] 。1951年には155安打で同年のシーズン最多安打に輝いた。1952年には中学以来となる捕手転向を打診されたが、櫟信平の欠場で一塁手に転向。同年は主に1番を任され、新人年から5年連続100安打を記録[5]。1953年途中に鎖骨を骨折した影響で1954年は出場ゼロに終わり、1955年からは代打での起用が中心となる。右、左、右と三度も鎖骨を折り、三度目は腰の骨を移植して手術するという重傷であった[4]。代打としては、監督が「ピンチヒッター・後藤」を告げるが、後藤は大事な時に何故か、いつもベンチに姿がなかった[4]。入団したての本間勝などは何度も呼びに行かされ、「クマさーん。後藤さーん」と大声で呼びまわっても返事がなく、行き先は決まってトイレであった[4]。探しまくっている方は焦って冷や汗をかいている中、当の後藤本人は何食わぬ顔で用を足していた[4]。当時、甲子園球場のトイレは、ベンチから少し離れたところにあって、後藤は「おう、スマン、スマン」と別に急ぐ様子はなく、おもむろにベンチへ戻ると、バットをケースから引き抜いてグラウンドへ向かった。あくまでもマイペースを貫き、何事があろうと、相手に弱味を見せなかった[4]。1957年引退。
来歴・人物
大阪タイガース入団まで
現役選手として