後藤朝太郎
人物情報
生誕 (1881-04-16) 1881年4月16日
日本愛媛県
死没1945年8月9日(1945-08-09)(64歳)
学問
研究分野中国学・言語学(中国語)
研究機関日本大学
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後藤 朝太郎(ごとう あさたろう、1881年(明治14年)4月16日 - 1945年(昭和20年)8月9日[1])は、日本の明治時代後期から昭和時代前期の言語学者。東京帝国大学講師[1]。日本大学教授[2][3][4]。号は「石農」[3][4]。「支那通」として知られた[4]。
略歴東京帝国大学言語学科(1905年)。
前列右から小倉進平、伊波普猷、神田城太郎。中列右から保科孝一、八杉貞利、上田万年、藤岡勝二、新村出。後列右から橋本進吉、徳沢(徳沢健三?)、後藤朝太郎、金田一京助。
伊波普猷生誕百年記念会編『伊波普猷 : 1876-1947 生誕百年記念アルバム』1976年、19頁。
愛媛県に生まれた[2]。広島県人・後藤榮太郎の二男[3][4][5]。1903年(明治36年)、第五高等学校大学予科第一部(文科)を卒業[6]。1907年(明治40年)、東京帝国大学文科大学言語学科を卒業[4][5][7]。同年の卒業生には言語学者の金田一京助がいた[7]。
著述業を営み、文部省、台湾総督府、朝鮮総督府嘱託[4]。東京帝国大学、東京高等造園学校各講師、日本大学教授[1]、日本庭園協会、東京家庭学院各理事、日本文明協会、東洋協会各評議員などをつとめた[4]。
敗戦の年、1945年(昭和20年)年8月9日交通事故で死亡。暗殺されたという説もある[1]。 趣味は支那山村水郭行脚、書道、支那工芸[3][4]。書家としても活動した。宗教は臨済宗[3][4]。住所は東京市小石川区小日向台町[3][4]。1914年に分家、東京在籍[3][4]。 著書、編著は110冊を越える[8]。主な著書に『文字の研究』『支那風物誌』など。大陸へ渡り、当時の中国の風俗や文化を取材しながら、本を何冊も執筆している。中国大陸への関心が高かった当時は広く読まれた。また、第二次世界大戦前にとどまらず、戦時中も現地人になりすまし、庶民が行くような飯屋にかよって大衆料理に舌鼓を打ったり、知名の人士との交流を絶やすことはなかった。 傍ら漢籍の翻訳も行い、「国訳漢文大成」で『淮南子』を翻訳している。序文によると、「現在の支那を旅していると、現代淮南子とでも言いたいような民話・伝承の類を多く聞くことができる」(要約)とあり、中国文化・風俗の紹介・研究の傍ら古典にも通じていたことが分かる。[9]
人物
家族・親族
後藤家
妻・あや(1890年 - ?、東京、岡田謙吉の二女)[3][4]
息子(1920年 - ?)[3]
長女・ふみ(1914年 - ?、景山直治の妻)[3][4]
二女、三女[3]
親戚
妹・キクヨの夫・福井菊三郎(毛皮商、福井商店代表社員)[10]
著作
1902年 - 『漢字音の系統』、六合館
1910年 - 『文字の研究』、成美堂書店
1915年 - 『文字の沿革 建築編』、成美堂書店
1921年 - 『国訳漢文大成 淮南子』国民文庫刊行会
1923年 - 『文字の智識』、紅玉堂書店
1927年 - 『支那風俗の話』、大阪屋号書店 (2009年に大空社
1925年 - 『歡楽の支那』、北隆館
1928年 - 『阿片室 支那綺談』、万里閣書房
『お隣の支那』、大阪屋号書店
1929年 - 『翰墨談』、富士書房
1931年 - 『翰墨行脚』、春陽堂
『時局を縺らす支那の民情』、千倉書房
1937年 - 『支那民俗の展望』、冨山房 (2002年に大空社より再刊)
『文房至宝』、雄山閣『隣邦支那』、今日の問題社
1938年 - 『最新支那旅行案内』、黄河書院
『長江千里』、高陽書院
1942年 - 『南洋の華僑』、高山書院
『支那書道』、黄河書院
1943年 - 『文字講話』、黄河書院
『文字史』 - 高山書院
脚注^ a b c d 後藤 朝太郎とは