後藤慶二
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後藤圭二」、「後藤圭二 (政治家)」、あるいは「後藤啓二」とは別人です。

後藤慶二

生誕1883年(明治16年)10月29日
日本 東京市小石川区
死没 (1919-02-03) 1919年2月3日(35歳没)
国籍 日本
出身校東京帝国大学
職業建築家

所属司法省
建築物豊多摩監獄

後藤 慶二(ごとう けいじ、1883年10月29日 - 1919年2月3日)は日本の建築家。司法技師として監獄等の建設に従事、豊多摩監獄(後の中野刑務所)が代表作。
経歴

東京市小石川生まれ。父・後藤牧太は物理学者で東京高等師範学校教授。東京高等師範学校附属小学校・同中学校を経て、旧制第四高等学校(金沢)第二部甲組を卒業。白馬会菊坂研究所に通い洋画を学ぶ。1906年に東京帝国大学工科大学建築学科に入学し、1909年卒業。同期に山崎静太郎長谷部鋭吉らがいる。

卒業後は司法省に入り営繕技師になる。山下啓次郎横浜勉とともに豊多摩監獄の建設に従事。また中央工学校(夜学)の建築科教務主理を務める。1914年頃、佐野利器内田祥三内藤多仲らと白光会を組織。同期の山崎静太郎中村達太郎の「虚偽建築論争」(1915-16年)に際して「形而下の構造に対する形而上の批判」を寄せ、構造と意匠に関する建築論を展開した[1]

1915年3月、豊多摩監獄が竣工[2]、同月、司法技師を依願免官。6月から8月にかけて、関野貞らとともに朝鮮総督府嘱託として朝鮮古墳調査に参加した。朝鮮から帰国後、明治神宮宝物殿建築設計競技に応募し、3等1席に入選する。現在の宝物殿(大江新太郎実施設計、重要文化財)は後藤案のデザイン(校倉風)をふまえていると言われる。

1916年、司法省に復職し、東京区裁判所を手がける。同年早稲田大学講師として内藤多仲の構造の講義を引き受けて、1年間代講する。

建築学会では常議員及び建築雑誌編集委員(1915年、1916年)等を務めた。国民美術協会展覧会の第2回(1914年)から第6回(1918年)まで作品を出展し、第6回に雨潤会奨励賞金を受ける。1917年には国民美術協会理事に選出された。

1919年、スペイン風邪腸チフスを併発し、36歳の若さで死去。墓所は東京都 港区 赤坂 にある澄泉寺にある。

1925年、妻芳香により作品図案を多く含む「後藤慶二氏遺稿」が発行される。建築家岡田信一郎が巻頭言を寄稿している。

建築構造でも研究を進め、佐野利器内田祥三内藤多仲らと「鉄筋コンクリートに関する訳語並びに記号私案」[3]を作成。コンクリート構造に関する論文を多く発表した。日本で建築構造における図式解法の最初の紹介者とも称される。
作品

豊多摩監獄(後の中野刑務所)

明治神宮宝物殿設計競技案

大同江画舫楽浪丸[4]

松田正久男爵銅像台座

宮島ホテル改築案

南薫造

大野隆徳邸[5]

東京区裁判所

その他旧豊多摩監獄表門「辰野金吾博士 作品集成絵図」1916年

短命のため作品は少ない。中野刑務所は1983年に閉庁し、跡地は防災公園(区立平和の森公園)、下水道施設、法務省矯正研修所となり、矯正研修所構内に旧豊多摩監獄の正門部分のみが保存された。矯正研修所は昭島市に移転したため、旧正門の保存運動が行われた。中野区は研修所跡地を小学校用地として購入し、旧正門は保存する方針としている[6]おり、区文化財に指定されており、[7]曳家により移築される予定である(2024年3月現在)。

辰野金吾の還暦祝いに「作品集成絵図」を贈った。日本銀行、東京帝国大学工科大学、東京駅など辰野作品が並ぶ架空の街並みを描いたものである。

子息一雄は後に東京工業大学建築学科教授。

注釈^ 藤井正一郎・山口廣編『日本建築宣言文集』(1973年、彰国社)p61、p81。
^ 建設に功績のあった後藤に300円、横浜勉に250円、山下啓次郎に100円の賞与が贈られた。


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