後藤喜八郎
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日本政治家後藤 喜八郎Kihachiro Gotoh.
生年月日1920年9月12日
出生地東京都武蔵野村
没年月日 (2007-11-01) 2007年11月1日(87歳没)
死没地東京都三鷹市
出身校中央大学法学部中退
所属政党旧日本社会党
称号武蔵野市特別市政功労者
配偶者有
武蔵野市長
当選回数4
在任期間1963年11月 - 1979年4月
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後藤 喜八郎(ごとう きはちろう、1920年9月12日 - 2007年11月1日)は、日本政治家、旧・日本社会党所属の元武蔵野市議会議員・副議長、第2代武蔵野市長。1960 - 1970年代にかけて日本各地に多く誕生した革新系首長の一人である。
目次

1 経歴

1.1 武蔵野市長時代

1.2 市長引退後と晩年


2 職歴

3 脚注

4 関連項目

5 外部リンク

経歴

1920年大正9年)9月12日東京府北多摩郡武蔵野村(現在の武蔵野市)に生まれる。

1943年昭和18年)8月、中央大学法学部を中退。

1951年(昭和26年)4月、武蔵野市議会議員選挙に当時の日本社会党から立候補し、初当選。市議会議員を3期にわたって務める。市議会議員時代、武蔵境の代表として「社会党ではなく境党」と、庶民感覚を忘れない精神とともに、地元の多くの人々に愛された。[1]また、1961年(昭和36年)には副議長も務めた。

1963年(昭和38年)4月に行われた武蔵野市長選挙に社会党所属で立候補し、27,222票を獲得。当時現職の荒井源吉(無所属)を6,000票近くの差で破り、初当選。5月、初代市長を4期15年5ヶ月にわたって務めた荒井の後を受け、第2代武蔵野市長に就任。以後、3度の再選を果たす(うち1967年(昭和42年)と1975年(昭和50年)は無投票当選)。
武蔵野市長時代

武蔵野市長に就任後は「市民自治」と「平和な緑と教育のまち」をスローガンに掲げ、1964年(昭和39年)、当時近代都市として大きく変貌を遂げていた国鉄京王帝都井の頭線吉祥寺駅周辺の都市計画を決定する。まず1965年(昭和40年)より国鉄が国鉄中央線荻窪三鷹間の高架複々線化に着手しており、その計画にも連携したものであった。高架複々線化工事は1969年(昭和44年)4月に完成し、国鉄は12月3日には吉祥寺駅北口に駅ビルロンロン」を開業した。翌1970年(昭和45年)11月には駅南口にターミナルエコー(のちのユザワヤ吉祥寺店)が開業した。さらに翌1971年(昭和46年)には吉祥寺大通りが完成(1977年(昭和52年)全面開通)し、またFFビル伊勢丹吉祥寺店。翌1972年(昭和47年)全館完成)やアーケード商店街サンロード」をオープンさせる。また1974年(昭和49年)にはアーケード商店街「ダイヤ街東急チェリーナード」、近鉄百貨店2001年平成13年)閉店。現:ヨドバシ吉祥寺)、そして旧吉祥寺名店会館跡に東急百貨店吉祥寺店、と次々開業させる。その後市長が藤元政信土屋正忠と交代した後も、吉祥寺多摩地区最大の商業区として拡大、成長、発展を遂げている。

また、後藤が市議会議員時代に「税金の二重取り」と批判してきた「下水道受益者負担制度」についても、市長就任後、隣接する三鷹市の導入例を見て、制度に効果があるとして自らの主張を変更し、この制度を1970年(昭和45年)より実施、下水道事業を大幅に進捗させ、土屋市政時代の1985年(昭和60年)には市全域に下水道事業が完成した[1]

さらに、当時は都市化が大きく進行しており、緑の減少も進み、当時急増するマンションによる日照侵害等の苦情が市に大きく寄せられ、全国初の中高層マンション規制として「宅地開発等に関する指導要綱」を制定。しかし、住民から要綱の運用を巡って訴訟を起こされ、後藤が水道法違反で刑事告訴される事態となった。この問題は1989年(平成元年)に決着し、建築基準法が改正されるきっかけとなった。[1]
また、都市化の代償として減少する緑を取り戻そうと、緑化市民委員会を発足。緑化推進本部の設置、「緑の憲章」制定等の対策に当たった。

このほかにも、武蔵境駅南口の開発や市内小中学校の完全鉄筋化、グリーンパークの整備公園化(のちに武蔵野中央公園となる)、富山県利賀村との姉妹都市盟約による「第2のふるさと」づくりなどにも大きく取り組んだ。

福祉関係でも、児童扶養手当介護人派遣事業を全国で最初に取り入れるなど、大いに努力した。

後藤市長時代の「市民参加」は1971年(昭和46年)に策定した武蔵野市基本構想・長期計画(コミュニティ構想)策定作業に取り込まれ「武蔵野方式」として全国的有名となり、現在の武蔵野市の礎を大きく築いた。

「太陽のように明るく生きよう」をモットーとし、太陽市長と呼ばれた後藤。常に市民の場に足を運び、子供を大切にする後藤の「市民参加」の姿勢は、邑上守正現市長も「理想の市長像」としており、その姿勢は現在の邑上市政に受け継がれている。
市長引退後と晩年

1979年(昭和54年)4月、4期16年務めた武蔵野市長を勇退。この在任期間は1983年(昭和58年)に第4代市長に就任した土屋正忠( - 2005年(平成17年)、のちに衆議院議員)に6期22年4ヶ月と記録更新されるまで最長だった。

1996年(平成8年)から世界連邦運動協会武蔵野支部長を務め、その後2001年(平成13年)に名誉支部長となり、逝去するまで計11年間務めた。

1997年(平成9年)9月、武蔵野市特別市政功労者表彰を受ける。

2007年(平成19年)11月1日午前0時40分、老衰のため三鷹市病院で逝去(享年87)。くしくも、武蔵野市市制施行60周年を迎える2日前だった。
11月27日には、武蔵境駅前の武蔵野スイングホールにて、後藤の市長時代の功績を称え「故・後藤喜八郎元武蔵野市長を偲ぶ会」が行われ、邑上現市長らが出席した。
職歴

武蔵野市議会議員 (1951.4-1963.3)、市議会副議長 (1961.4-1963.3)

武蔵野市長 (1963.5-1979.4)

東京都国民健康保険団体連合会理事 (1966)

日本下水道協会副会長 (1967)

日本水道協会理事 (1969)

東京都市長会監事 (1974) → 副会長 (1976-1979.4)

全国市長会評議員 (1974-1979.4)

世界連邦運動協会武蔵野支部長 (1996-2001) → 名誉支部長 (2001-2007)

脚注

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^ a b c 参考: ⇒土屋正忠のブログにようこそ!:元武蔵野市長 後藤喜八郎氏を偲ぶ会 - 2010年1月12日閲覧

関連項目

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