後藤 修基本情報
国籍 日本
出身地静岡県袋井市
生年月日1934年4月1日
没年月日 (2019-09-10) 2019年9月10日(85歳没)
身長
体重181 cm
78 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1952年
初出場1955年
最終出場1963年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
静岡県立磐田南高等学校
松竹ロビンス (1952)
大洋松竹ロビンス
洋松ロビンス (1953 - 1954)
東映フライヤーズ (1955)
大映スターズ (1956)
読売ジャイアンツ (1957 - 1958)
近鉄バファロー (1959 - 1960)
南海ホークス (1961 - 1962)
西鉄ライオンズ (1963)
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後藤 修(ごとう おさむ、1934年4月1日 - 2019年9月10日)は、静岡県[1]出身のプロ野球選手(投手)・ゴルフコーチ。
現役時代は日本プロ野球史上最多の8球団を渡り歩いたジャーニーマンで、移動型民族になぞらえて「ジプシー後藤」「ジプシーの修」と呼ばれた。 磐田南高校時代は全く無名の存在であったが[2]、アマチュア時代からトレーニング方法について手紙でやりとりをしていた新田恭一が松竹ロビンス監督に就任した関係で、1952年に松竹へ入団[3][4]。 前述のとおり、松竹(1952年)を皮切りに、大洋松竹ロビンス(1953年 - 1954年)→東映フライヤーズ(1955年)→大映スターズ(1956年)→読売ジャイアンツ(1957年 - 1958年)→近鉄バファロー(1959年 - 1960年)→南海ホークス(1961年 - 1962年)→西鉄ライオンズ(1963年)と8球団に所属。プロ入り時の松竹以外はすべてテスト入団でありながら、どの球団もテストで後藤の投球・打撃フォームを見ると痺れて前の球団より多くの金を積み、松竹(2万円)、大洋(2万3千円)、東映(3万6千円)、大映(4万円)、巨人(5万5千円)、近鉄(7万円)、南海(8万円)、西鉄(9万円)移籍する度に給料が上がっていった[5]。松竹では小鶴誠、巨人では川上哲治・長嶋茂雄、南海では野村克也、西鉄では稲尾和久・中西太と昭和を代表する大選手とチームメイトであった[2]。 松竹・洋松では一軍登板のないまま解雇され、1955年はまずトンボユニオンズの入団テストを受ける。球団代表らが見守る中、後藤はキャッチボールのボールをわざと後ろにそらすと、ボールを拾いに行って、90メートル離れたところからノーバウンドで返球して見せた。後藤はこれで合格が内定していたが、テスト二日目に事件が起こる。宿舎からテスト生たちが出ようとすると、球団代表の飯塚誠が「帝国陸軍の軍人は行進のとき、一歩の間隔は75センチと決まっていた!お前らも二列連隊、75センチ間隔で球場まで歩く!」と演説し、これに怒った後藤は入団を断った[6]。 同年2月に今度は東映のテストを受け、後藤はほんの数球肩慣らしをすると、後藤はホームベース上に立ってライトスタンドに向かって遠投を始める。1球目はフェンスに直撃、2球目はフェンスを超える。そして保井浩一監督に「つまり人間の肩というのは、これだけ柔軟性というか、即応性というものがあるんですよ、だから特訓なんて意味ないんです」とテスト生でありながら日本球界の伝統を否定した。続いて行なわれた打撃テストでは後藤は場外に145メートル弾を放って見せた。その晩に後藤は監督室に呼ばれ「もちろんテストは合格だ。ただし君には打者転向という条件で契約したい」と言われたが、後藤は「私には生涯を通じて二つの趣味があります、遠征で列車移動のときに聖書を読むこと、合宿でクラシックを聴くことです。打者に転向すると眼が大事になるので聖書は読めなくなる、それから日本の公認球場はほとんど春から夏いっぱいまで右翼から、本塁に向かって風が吹く、つまり左の私が打者転向しても有利な材料はない」と言って打者転向を断った[7]。
来歴・人物
プロ入りまで
現役時代