後花園天皇
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後花園天皇
伝後花園天皇像[注釈 1]大應寺蔵)
第102代天皇
在位期間
1428年9月7日 - 1464年8月21日
正長元年7月28日 - 寛正5年7月19日
即位礼1430年1月21日永享元年12月27日
大嘗祭1430年12月3日(永享2年11月18日
元号正長
永享
嘉吉
文安
宝徳
享徳
康正
長禄
寛正
摂政二条持基一条兼良 → 二条持基
関白二条持基 → 近衛房嗣 → 一条兼良 →
二条持通鷹司房平 → 二条持通 →
一条教房 → 二条持通
征夷大将軍足利義教義勝義政
先代称光天皇
次代後土御門天皇

誕生1419年7月10日応永26年6月18日
庭田重有第
崩御1471年1月18日文明2年12月27日)卯刻
室町第泉殿
大喪儀1471年1月23日(文明3年1月3日
陵所後山国陵、般舟院陵(分骨所)
追号後花園院
(後花園天皇)
1471年3月10日文明3年2月19日)追号勅定
諱彦仁
別称円満智(法名)
元服1433年1月24日永享5年1月3日
父親養父:後小松天皇
実父:伏見宮貞成親王(後崇光院)
母親養母:日野西資子(光範門院)
実母:庭田幸子(敷政門院)
子女観心女王
成仁親王(後土御門天皇) 他
皇居土御門高倉殿
京都御所
一条東洞院殿
親署
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後花園天皇(ごはなぞのてんのう、1419年7月10日応永26年6月18日〉- 1471年1月18日文明2年12月27日[1])は、日本の第102代天皇(在位:1428年9月7日正長元年7月28日〉- 1464年8月21日寛正5年7月19日〉)。は彦仁(ひこひと)。

伏見宮貞成親王(後崇光院。崇光天皇の孫)の第一王子。母は庭田経有の女の庭田幸子(敷政門院)。践祚前の正長元年7月17日1428年8月27日)に後小松天皇猶子となる。

本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、傍系で三従兄弟[注釈 2]にあたる称光天皇が嗣子を残さず崩御したため、皇位を継いだ。先帝とは8親等以上離れた続柄での皇位継承は53代(称徳天皇光仁天皇)以来658年ぶりであり、かつ南北朝合一時の「明徳の和約」(皇位は両統迭立とする)にも反するため、旧南朝勢力の激しい反発を招き、以後、約60年にわたって南朝復興運動(いわゆる「後南朝」)が繰り広げられる引き金になった。
生涯

応永26年(1419年)6月18日貞成親王の第一王子として生まれた。

応永29年(1422年)以降、先代の称光天皇は幾度か危篤状態に陥るなど病弱で皇子がなく、称光の同母弟で皇儲に擬せられていた小川宮も応永32年(1425年)に早世したため、その父で院政を敷いていた後小松上皇は、早急に皇嗣を決定する必要に迫られた。

正長元年(1428年)、称光天皇が危篤に陥ると、両統迭立を要求する後南朝勢力がにわかに活動の気配を見せたため、室町幕府将軍に就任することになっていた足利義宣(後の足利義教)は伏見御所にいた彦仁王を保護し、後小松上皇に新帝指名を求めた。

同年7月20日、称光天皇が崩御すると、彦仁王は後小松上皇の猶子となって親王宣下のないまま、7月28日践祚し、永享元年(1429年12月27日即位した。天皇の即位は、崇光天皇以来、皇統の正嫡に帰ることを念願していた伏見宮家にとってはめでたいことであり[注釈 3]、父の貞成親王もこれを「神慮」として喜んだ。

永享6年には清原業忠を侍講に、『孝経』『論語』『孟子』を学び、3月24日には貞成親王より『誡太子書』を献上されている。『誡太子書』とは、かつて花園上皇が後花園の高祖父にあたる皇太子量仁親王(光厳天皇)のために著した訓戒書であり、南北朝の動乱の中でも光厳が他多くの記録類とともに崇光皇統(伏見宮)に守り伝えたものであった。このように、豊富な記録類を保有する崇光皇統(伏見宮)を背後に置けたことは、後花園天皇の長所であった[2]

即位して以降も後小松上皇による院政は継続されたが、永享5年(1433年)10月に上皇が崩御した後は30年余りにわたって親政を行った。この間、永享11年(1439年)6月には勅撰和歌集二十一代集)の最後に当たる『新続古今和歌集』が成立。

天皇の治世、各地で土一揆が起こり、永享の乱(永享10年、1438年)、嘉吉の乱(嘉吉元年、1441年)などでは治罰綸旨を発給するなどの政治的役割も担って、朝廷権威の高揚を図った[3]。永享の乱での治罰綸旨の発給は、足利義満の代より廃絶していた朝敵制度が60年ぶりに復活したものであった[3]。以後、天皇の政治的権威は上昇し、幕府が大小の反乱鎮圧に際して綸旨を奏請したため、皇権の復活にもつながっていった[3]

嘉吉3年(1443年)9月、後南朝勢力が土御門東洞院殿に夜襲をかけ放火し、後花園天皇は左大臣近衛房嗣邸に逃れるが、三種の神器の一部を奪われた(禁闕の変)。奪われた神器のうち、剣は清水寺で発見されるが、神璽(曲玉)は持ち去られた。

文安元年(1444年)2月、同母弟の伏見宮貞常親王に親王宣下を行い、文安4年(1447年)11月に父の貞成親王に太上天皇の尊号を奉っている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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