この項目「後漢末」は翻訳されたばかりのものです。不自然あるいは曖昧な表現などが含まれる可能性があり、このままでは読みづらいかもしれません。(原文:en:End_of_the_Han_dynasty
01:58, 26 January 2024)発音記号
標準中国語
漢語?音Hanchao Monian
東漢末年
繁体字 東漢末年
簡体字 ??末年
後漢末(ごかんまつ)とは、中国の歴史のうち、大まかに漢の最後の統治者献帝の時代、及び三国時代を指す。後漢末期には黄巾の乱による混乱により董卓が台頭、群雄が割拠するに至った。群雄の一人曹操は献帝とその宮廷を支配し、国の再統一を推し進めた。実際には皇帝は人質であったが、曹操は表向きは献帝の臣下であった。
中国を再統一する曹操の努力は曹操軍が孫権と劉備の連合軍に敗れた赤壁の戦いで挫折した。曹操の息子で後継者の曹丕は禅譲するよう献帝に圧力をかけ、漢王朝は滅亡した。曹丕は新しい国魏の皇帝になった。応えて劉備は221年に蜀漢の皇帝であると宣言し、孫権は229年に呉の皇帝であると宣言した。220年に漢が滅亡、中国に再び統一王朝晋が成立したの280年であった。
王朝の権威の失墜(184年?191年)
黄巾の乱と分散化(184年?189年)黄巾の乱を示す地図詳細は「漢の歴史(英語版)」および「黄巾の乱」を参照
霊帝(在位168年?189年)の統治の終わりに向けて多くの官吏は霊帝が死んですぐの政界の混乱を予感した。この官吏の一人劉焉は188年に霊帝に最も深刻な反乱184年の黄巾の乱などの当時の土地利用に関する反乱の根源が刺史に実質的な行政権が欠けていることであることを示唆した。劉焉に言われて納得した霊帝は刺史の肩書きを牧に変え、徴税し国境で軍を指揮する権限を認めた。(現代の河北省北部や北京市、天津市、遼寧省を含む)幽州の牧に任命された劉虞などの数人の重要な官吏も牧になった一方で劉焉は(四川盆地を含む)益州の牧に任じられた。この各地の牧の影響が増大することで後の群雄が漢の広大な地域を支配する基礎を形成した。家鴨の形をした後漢の香炉と銅像 霊帝は189年に死去し、(霊思何皇后に生まれた)13歳の少帝弁が継承した。兄の何進将軍が宮廷で最も強力な官吏になった一方で、今では皇太后になった霊思何皇后は若い皇帝の摂政になった。何進と袁紹は宮廷で影響力のある宦官
権力闘争(189年)
董卓が現場に到着し少帝弁と劉協を発見した。劉協はおとなしく冷静であった一方で若い皇帝は神経質で怯えているようであり、董卓に宮殿に連れて行くよう命令した。董卓はこの機会を利用して国家権力を支配し自分の軍隊を首都に引き入れた。程なく董卓は皇帝を退位させ毒殺し、献帝として知られることになる劉協に即位させた。董卓は宮廷を牛耳り、自ら前漢の政治家蕭何以来空位であった肩書き「宰相」(相国)に任じ、董卓は武器を置き靴を脱がずに宮廷に上がれる特権も自分に認めた。
反董卓の抵抗運動(189年?191年)詳細は「董卓討伐戦(英語版)」を参照後漢の飛び跳ねる馬(銅像)、2世紀
190年春に董卓が王位の簒奪を企み事実上献帝を誘拐したと言いながら数人の各地の官吏や群雄が反董卓連合を結成した。(現代の河北省滄州市周辺の)勃海郡の行政官袁紹が連合の代表に推薦された。連合軍は河内郡(現代の河南省焦作市)に駐屯し、首都洛陽に移動する準備ができたようであった。しかし連合は実際には組織されてはおらず、袁紹は事実上全軍を指揮することはなかった。その上連合に加わった者も董卓と董卓の強力な涼州軍に直接立ち向かうことに躊躇した。更に董卓は不安で連合から逃れるために西の長安に首都を動かすことを選んだ。約1か月後に董卓は洛陽の住民と共に献帝と宮廷を長安に移動させ、その過程で嘗ての首都を焼き払うよう命じた。移動中に董卓は洛陽近郊に留まり連合軍の攻撃に備える準備をした。191年、連合軍は王族の一員であることから皇帝になる資格のある劉虞に即位するよう求めることで董卓の立場を更に違法なものにしようとした。劉虞は献帝に忠実であり続け、きっぱりと即位を断った。連合軍参加者が戦闘計画について言い争いを続けたので、袁術傘下の弱小将軍孫堅は考えられる危険を採って洛陽近郊で直接董卓を攻撃した。董卓軍に数回勝利を収めると、やがて董卓を長安に撤退させ、洛陽は連合軍が支配することになった。
191年末までの続く期間に連合軍参加者が各自の拠点に戻りながら連合軍は反董卓の更なる行動をとることを止めやがて解散した。暫くして数人の官吏が王(英語版)のようにそれぞれの領土を支配することを考え始めた。当時台頭した最も知られた群雄に次の者がいた。
袁紹は191年に韓馥から(現在の河北省中央部と南部と河南省北部を含む)冀州(英語版)の支配を簒奪した。
劉焉は益州を支配した。
劉表は(現在の湖北省と湖南省を含む)荊州を支配した。
袁紹の異母兄弟(名目上は従兄弟)である袁術は(現在の安徽省北部と中央部を含む)淮河の南の地域を支配した。
しかしこの大群雄に加えて結局は漢全体が事実上細分化されそれそれが地元の群雄に支配された。
董卓の死と打ち続く戦乱(192年?196年)190年代の主な中国の群雄を示す地図後漢の石彫りの墓の番人(天路):洛陽の市立博物館
董卓の死とその後(192年)詳細は「李郭の乱(英語版)」を参照
長安に撤退すると董卓は更に政府を強固に掌握し続け無慈悲に反対派を抑圧した。王允と黄?や士孫瑞、楊?などの数人の官吏は董卓を抹殺することを企んだ。やがて董卓の里子の息子呂布を説得して仲間に入れた。董卓が一度かっとなって呂布を殺しかけたことがあり董卓の女中の一人との秘め事が暴露されるのではないかとも恐れていたので呂布は董卓に恨みを抱いた。192年5月に呂布と王允に率いられた共謀者は董卓を暗殺し一族を虐殺した。
董卓が死ぬと董卓の「恐怖政治」による混乱は収まり中央政府は元の状態に戻ると考えられた。しかし王允は有能な閣僚とみなされたが、次第に傲慢になり、失脚の原因となる数個の大失策を行った。呂布との良好な関係を維持することに失敗し、董卓の家臣への恩赦の申し出を強硬に拒否し、解散を命令した。このことは董卓の家臣が虐殺されるかもしれないと恐れる原因となった。董卓の義理の息子牛輔は涼州で董卓軍を支配し王允に抵抗したが、後に友軍の誤射で死亡した。牛輔の家臣李?や郭、樊稠は宮廷に従いたかったが、過去に王允に抵抗したために、王允は今では恩赦の申し出を拒絶した。李?、郭、樊稠は自分の軍隊を率いて長安を攻撃し、政府を支配した。呂布は敗れ追い払われた一方で王允は捕らえられ処刑された。
打ち続く戦乱(193年?196年)