この項目では、かつて存在した野球場について説明しています。現在の野球場については「東京ドーム」をご覧ください。
後楽園球場
Korakuen Stadium
後楽園球場(右)と後楽園競輪場(中央)国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
後楽園球場(こうらくえんきゅうじょう、 英語: Korakuen Stadium)は、かつて日本の東京都文京区(建設当時は東京府東京市小石川区)にあった野球場。正式名称は「後楽園スタヂアム」(こうらくえんスタヂアム)。株式会社後楽園スタヂアム(現:株式会社東京ドーム)が管理していた。 1936年(昭和11年)、日本のプロ野球(当時は職業野球)は本格的に始まったが、東京府内では東京六大学野球リーグの反発で明治神宮野球場が使用できなかったこともあり、同年7月1日の東京におけるプロチーム同士の初試合(東京巨人軍対名古屋軍)は早稲田大学の戸塚球場を借りて挙行せざるを得ず、東京で試合を開催する球場の問題が持ち上がっていた。このため、杉並区に上井草球場、当時の深川区に洲崎球場が造られたが、上井草は3万人という収容人員に比して交通の便が悪く、洲崎は海岸沿いの低湿地に立地していたため満潮時にたびたび球場が浸水するという問題を抱えていた。 このため、「日本初の職業野球」日本運動協会(芝浦協会)の創始者で、かねてからフランチャイズ制を提唱していた河野安通志や押川清は、東京の都心に職業野球専用の新球場を建設しようと計画。読売新聞社の正力松太郎や阪急電鉄の小林一三らの出資を仰いで1936年(昭和11年)12月に株式会社後楽園スタヂアムを設立した。 東京市小石川区に位置していた大日本帝国陸軍東京砲兵工廠の工場機能が福岡県の小倉に移転したため、空き地になっていた国有地を払い下げで取得し、内野2階建てスタンド(バックネット裏はアメリカンスタイルで、グラウンドの最前線までスタンドがせり出す形式[注 1]を採用)を持つ野球場が建設され、1937年(昭和12年)9月に開場した。また同じ年に後楽園は直属の職業野球団として後楽園野球クラブ(イーグルス=のちに黒鷲軍、大和軍と改称)を設立し、押川が社長、河野が常務兼総監督に就任して、球場内に球団事務所が置かれた[1]。 球場の名は隣接する小石川後楽園にちなんでいる。 戦前の職業野球にはフランチャイズ(地域権)が確立されておらず、東京では後楽園、関西では甲子園、西宮を主要開催球場として、数球団が集結し変則ダブルヘッダーを行う興行方法が採られていた。したがってイーグルスは後楽園の直属球団ではあったが、後楽園球場が同球団のフランチャイズだったわけではない。 法人の設立時の株主名簿には「1000株小林一三、1000株正力松太郎、200株五島慶太、200株大谷竹次郎」のほか、1000株以上の株主として「早川芳太郎、田辺宗英、水上金三郎、水上源太郎、小田進平、大橋松雄、土屋市兵衛、佐藤勘次郎、長尾鉄弥、岸本吉左衛門、北村新治郎、下郷寅吉ら」の名前が記載されており[1]、正力が大口出資者で、小林とともに相談役に名を連ね、後楽園スタヂアムの経営に一定の影響力を持っていたが、後楽園球場が巨人の「フランチャイズ」だったり「優先使用権」が存在したということもない。 また小林、田辺系統、兜町系統、野球人系統と三者混合内閣であった為、緊密な協調が保たれず、1938年(昭和13年)6月には小林が全株式の半分以上を取得して自身が率いる東宝の傘下に加え、役員を会長・渋沢秀雄、社長・吉岡重三郎、専務・秦豊吉(第三代社長)、監査役・真鍋八千代(第五代社長)と、ほとんどを東宝系の顔ぶれに入れ替えた。以後、後楽園では野球興行以外にサーカスなど様々なイベントが行われ、さらに映画館「スポーツシネマ」や、観客席下のスペースを利用してタクシー会社向けの貸ガレージを開業するなど、東宝の主導で経営の多角化、球場の多目的施設化が進められた。 その後、イーグルスの経営状態が後楽園本社の収支に影響を与えることや、スダヂアム経営陣と押川、河野らイーグルス側との不和もあって後楽園は1938年10月にイーグルスの経営権を大日本麦酒社長だった高橋龍太郎に譲渡し、球団事務所も神田・今川橋に移転した[1]。 後楽園球場の開場後、洲崎はほどなく閉鎖され、上井草も使われなくなり、後楽園は完全に東京でのプロ野球興行の拠点となった。 また、球場の両翼が78mしかなかったこともあって本塁打がよく出たため(1937年〈昭和12年〉は開場後に82試合が行われ、84本の本塁打が出た。これに対し後楽園以外の球場では113試合で24本だった)「本塁打の出やすい球場」としてもファンの人気を集めた。1949年(昭和24年)までの1リーグ時代に行われた4988試合のうち41%にあたる2033試合が後楽園で行われている。 第二次世界大戦末期には、球場は旧日本軍に接収され、グラウンドではジャガイモやトウモロコシが栽培され、2階席には高射砲が設置された。 終戦後には兵器集積場になったりもしたが、1945年(昭和20年)には早慶戦やプロ野球の東西対抗戦が開催されるなど[要出典]、野球はすぐに再開された。 1946年(昭和21年)6月には上記のような経緯も影響してか連合国軍総司令部(GHQ)から接収命令が下るが、「東京でのプロ野球興行の場を失ってはならない」と当時の日本野球連盟の鈴木龍二と鈴木惣太郎がGHQを訪れて接収解除の陳情を行い、接収は6日間で解除された。 1950年にセ・パの2リーグに分裂した当時、東京はおろか首都圏の近郊にプロ野球の試合の常時興行が可能な球場が後楽園しかなかったこともあって、後楽園での試合数は飛躍的に増え、1950年(昭和25年)はセ・リーグの553試合のうち171試合(全体の31%)、パ・リーグの420試合のうち117試合(全体の28%)が後楽園で行われた。 1952年(昭和27年)にプロ野球では正式にフランチャイズ制度が導入されたが、後楽園は巨人、国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)、東急フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)、毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)[注 2]、大映スターズ(千葉ロッテマリーンズの前身球団のひとつ)の5球団が本拠地として構えるなど日本一の球場の名を縦にした。その後、東急が1953年(昭和28年)に駒澤球場、毎日と大映の合併でできた大毎が1962年(昭和37年)に東京球場、国鉄が1964年(昭和39年)に明治神宮球場へ移転した。しかし、東映[注 3]は駒沢が東京オリンピックの関係で、1961年(昭和36年)に閉鎖されたため、神宮と後楽園を併用した後、1965年(昭和40年)に再び後楽園を本拠地とした[注 4]。このため、開催試合数は減ったものの、巨人戦の大きな観客動員数に支えられ、日本野球のメッカとしての不変の地位を得た。 この間、1958年(昭和33年)には両翼を78mから90mに拡張するなど施設の整備に努めた。ただし、実測はもっと狭く打者に有利な球場だった。そのため、両翼・センターの距離表示が消去されたという経緯もある。また外野に向かって下向きに傾斜しているが[2]、グラウンドの排水をしやすくするためにほとんどの屋外球場で傾斜はついている。 日本最多の本塁打数を誇る王貞治は節目となる本塁打の多くをこの球場で放った。特にハンク・アーロンが保持するMLB記録を超える756号(1977年(昭和52年))と世界初の800号達成(1978年(昭和53年))の時には達成直後や試合終了後にセレモニーが催された。 王が本球場で達成した節目の本塁打 施設整備も進み、1966年(昭和41年)には内野に天然芝を敷設し、1970年(昭和45年)にはスコアボードを電光掲示化。1976年(昭和51年)には人工芝を敷設した(後ろの二つは日本の野球場としては初)。しかし、巨人戦の動員力の大きさとは対照的に、東映→日拓ホーム→日本ハムの観客動員数は振るわなかった。オーロラビジョンが完成した1981年の日本シリーズは巨人と日本ハムの顔合わせとなり、史上初めて日本シリーズが同一球場で開催された[3]。
歴史
前史
「後楽園スタヂアム」の誕生
第二次世界大戦後戦後最初の早慶戦で超満員の後楽園球場(1946年6月15日)
プロ野球のフランチャイズ制正式導入後1956年の広告
1959年(昭和34年) - 公式戦第1号(国鉄戦)、長嶋茂雄とのONアベック本塁打第1号(阪神戦・天覧試合)
1974年(昭和49年) - 最後のONアベック本塁打(106回目 中日戦・長嶋引退試合)
1976年(昭和51年) - ベーブ・ルースの持つMLB2位の記録に並ぶ714号と、それを超える715号(2本とも阪神戦)
1977年(昭和52年) - ハンク・アーロンの持つMLB記録(当時)に並ぶ755号(大洋戦)と、それを超える756号(ヤクルト戦)
1978年(昭和53年) - 世界初の800号(大洋戦)
1980年(昭和55年) - 世界初の850号(広島戦)、現役最後そして通算本塁打の868号本塁打(ヤクルト戦)