この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "後廃帝" 南朝宋
後廃帝 劉c
宋
第7代皇帝
王朝宋
在位期間泰豫元年4月18日 - 元徽5年7月7日
(472年5月11日 - 477年8月1日)
都城建康
姓・諱劉c
字徳融
諡号無
廟号無
生年大明7年1月26日
(463年3月1日)
没年元徽5年7月7日
(477年8月1日)
父明帝
母陳貴妃
后妃江皇后
陵墓丹陽郡秣陵県郊壇西
年号元徽 : 473年 - 477年
後廃帝(こうはいてい)は、南朝宋の第7代皇帝(在位:472年 - 477年)。姓は劉、諱はc(いく)。字は徳融、小字は慧震。また蒼梧王(そうごおう)とも呼ばれる。 大明7年(463年)正月、劉cは南朝宋の湘東王劉ケの長男として建康の衛尉府で生まれた。泰始2年(466年)10月、皇太子に立てられた。泰豫元年(472年)4月、父の明帝劉ケが死去すると、劉cは皇帝として即位した。袁粲と?淵
生涯
帝位から引きずり落とされて殺害された皇帝、つまり「廃帝」であるが、南朝宋では第5代皇帝の劉子業もそうした運命をたどっているため、劉子業を「前廃帝」、劉cを「後廃帝」と呼んで区別する。 劉cの母の陳妙登は明帝の妃となる前は李道児の妾であったことから、劉cは李道児の子であるという噂が絶えなかった。劉c自身も李将軍を自称した。 劉cは残虐な性格であり、幼い頃から自分の命令に従わないものは殴打するという調子だった。皇帝に即位した後も、殺人を好み、毎日のように街に出ては自ら凶器を持ち歩いて手当たり次第に人を殺し、殺人をしなかった日は悶々としていたという。ある時、ニンニクばかりを食べている人間の腹はニンニク臭いのかを調べるために人間の腹を割いたり、たまたま通りかかった妊婦の腹が気になり切り裂こうとしたり(これは医師の徐文伯という人物が針治療により早産に成功し、未遂に終わった)と子供ながらにして残虐を極めた人物であった。しまいには蕭道成の腹を矢の的にしようとした。 以上の逸話から、後廃帝劉cは中国史上屈指の暴君とされているが、これらは蕭道成による奪権を正当化するために暴虐ぶりが誇張されている可能性はある。 先代
人物・逸話
脚注^ 『資治通鑑』巻134による。
伝記資料
『宋書』巻9 本紀第9 後廃帝
『南史』巻3 宋本紀下第3 後廃帝
明帝宋(劉宋)の皇帝
第7代:472年 - 477年次代
順帝
表
話
編
歴
南朝の皇帝
宋
武帝(420-422)
少帝(422-424)
文帝(424-453)
(劉劭)(453)
孝武帝(453-464)
前廃帝(464-466)
(劉子)(466)
明帝(466-472)
後廃帝(472-477)
順帝(477-479)
斉
高帝(479-482)
武帝(482-493)
鬱林王(493-494)
海陵王(494)
明帝(494-498)
東昏侯(498-501)
和帝(501-502)
(蕭宝寅)(528-529)
梁
武帝(502-549)
(蕭正徳)(548-549)
簡文帝(549-551)
(蕭棟)(551)
(蕭紀)(552-553)
元帝(552-555)
敬帝(555)
(蕭淵明)(555)
敬帝(重祚)(555-557)
(蕭荘)(558-560)
(西)宣帝(555-562)
(西)明帝(562-585)
(西)後主(585-587)
(蕭銑)(618-621)
陳
武帝(557-559)
文帝(559-566)
廃帝(566-568)
宣帝(569-582)
後主(582-589)