後嵯峨天皇
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後嵯峨天皇
後嵯峨天皇像(宮内庁蔵『天子摂関御影』より)
第88代天皇
在位期間
1242年2月21日 - 1246年2月16日
仁治3年1月20日 - 寛元4年1月29日
即位礼1242年4月19日(仁治3年3月18日
大嘗祭1242年12月6日(仁治3年11月13日
元号仁治
寛元
時代鎌倉時代
先代四条天皇
次代後深草天皇

誕生1220年4月1日承久2年2月26日
崩御1272年3月17日文永9年2月17日
大覚寺
大喪儀1272年3月19日(文永9年2月19日
陵所嵯峨南陵
追号後嵯峨院
(後嵯峨天皇)
諱邦仁
別称素覚(法名)
元服1242年2月21日仁治3年1月20日
父親土御門天皇
母親源通子
中宮藤原(西園寺)?子(大宮院)
子女宗尊親王後深草天皇亀山天皇ほか
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後嵯峨天皇(ごさがてんのう、1220年4月1日承久2年2月26日〉- 1272年3月17日文永9年2月17日[1])は、日本の第88代天皇(在位:1242年2月21日仁治3年1月20日〉- 1246年2月16日寛元4年1月29日〉)。は邦仁(くにひと)。

土御門天皇の皇子。母は源通宗の娘の通子

2012年平成24年)9月、宮内庁1873年明治5年)の改暦の際に命日の換算を間違えていたため、2012年春から正しい日に直したことを『書陵部紀要』に発表した。後嵯峨天皇の崩御日の旧暦はユリウス暦では3月17日、グレゴリオ暦では3月24日となるが、約140年間にわたり1日後の3月25日に祭祀を行っていたことになる。聖武天皇も同様に計算の誤りで1日命日が異なっていたという[2]
略歴

承久の乱の前年の誕生であり、土御門上皇土佐に流された後は、母方の大叔父である中院通方土御門定通の許で育った。だが、土御門家一門の没落に伴って苦しい生活を送り、20歳を過ぎても出家元服もままならないという中途半端な状態に置かれていた。

仁治3年(1242年)に四条天皇が12歳で崩御したため、皇位継承の問題が持ち上がった。公卿幕府などの思惑が絡んだため、問題は難航した。九条道家ら有力な公卿たちは、順徳上皇の皇子である忠成王仲恭天皇の異母弟)を擁立しようとした。しかし執権北条泰時および現地六波羅探題北条重時は、承久の乱の関係者の順徳上皇の皇子の擁立には反対の立場を示し、中立的立場であった土御門上皇の皇子の邦仁王を擁立しようとし、鶴岡八幡宮の御託宣があったとして邦仁王を擁立した(仁治三年の政変)。

実は土御門定通の側室は重時の同母妹(竹殿)であったため、邦仁王と北条氏とは縁戚関係にあったという特殊な事情もあった。また、当時の鶴岡八幡宮の別当・定親は定通の弟であり、更に泰時の政治的ライバルと言える三浦泰村の室は定通の妹であったとする説もある[3]

この駆け引きのため、11日間の空位期間が発生した。また、当時の公家の日記である『平戸記』・『民経記』[注釈 1]が邦仁王擁立を非難する記述(ともに仁治3年正月19日条)を残すなど、当時の公家社会にも衝撃を与えた。

道家の義父であった西園寺公経はこの状況を見て、直ちに縁戚の四条隆親の邸宅に邦仁王を迎えて1月20日に践祚を行わせると、3月18日の即位式から間もない同月25日には天皇に働きかけて関白を近衛兼経(道家の娘婿)から二条良実(道家の次男だが、公経の庇護下にあった)に交替させている[5]

即位した天皇は宮廷の実力者である西園寺家と婚姻関係を結ぶことで自らの立場の安定化を図り、寛元4年(1246年)に在位4年で皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、院政を開始。この年、政治的に対立関係にあった実力者・九条道家が失脚したこともあって、上皇の主導によって朝廷内の政務が行われることになった。以後、姉小路顕朝中御門経任ら実務担当の中級貴族を側近に登用して院政が展開されていくことになる。正元元年(1259年)には後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である恒仁親王(亀山天皇)への譲位を促した。

後嵯峨上皇の時代は、鎌倉幕府による朝廷掌握が進んだ時期であり、後嵯峨上皇による院政は、ほぼ幕府の統制下にあった。ただし、宝治元年(1247年)の宝治合戦直後には北条時頼以下幕府要人が「公家御事、殊可被奉尊敬由」[6]とする合意を行って、後嵯峨院政への全面的な協力を決定している。また、摂家将軍の代わりに宗尊親王将軍とすることで合意する(宮将軍)など、後嵯峨院政と鎌倉幕府を掌握して執権政治を確立した北条氏との間での連携によって政治の安定が図られた時期でもあった。ただし、順徳上皇の生母である修明門院は自身が持つ広大な荘園群を背景に依然として孫にあたる上皇の皇子(忠成王もしくは異母弟の善統親王)を皇位に就けるべく活動していた形跡があり、後嵯峨院政を脅かしていたという指摘もある[7]

文永5年(1268年)10月に出家して法皇となり、大覚寺に移る。同9年(1272年)2月、崩御。宝算53。

後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にして、治天の君を定めずに崩御したことが、後の北朝持明院統(後深草天皇の血統)と南朝大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが日本史における南北朝時代、更には後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となった。
諡号・追号・異名

嵯峨に亀山殿を営み、同所において出家、崩御している。遺諡によって後嵯峨院の追号を定めたという。
系譜

後嵯峨天皇の系譜

                 

 16.
第77代 後白河天皇
 
     

 8. 第80代 高倉天皇 
 
        

 17. 平滋子


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