後小松天皇
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後小松天皇
後小松天皇像(雲龍院蔵)
第100代天皇
北朝第6代
天皇
在位期間
1382年5月24日 - 1412年10月5日
永徳2年4月11日 - 応永19年8月29日
即位礼1383年1月31日(永徳2年12月28日
大嘗祭1383年12月10日(永徳3年11月16日
元号永徳
至徳
嘉慶
康応
明徳
応永
時代室町時代南北朝時代
征夷大将軍足利義満義持
先代北朝:後円融天皇
南朝:後亀山天皇
次代称光天皇

誕生1377年8月1日永和3年6月27日
崩御1433年12月1日永享5年10月20日
東洞院仙洞御所
大喪儀1433年12月8日(永享5年10月27日
陵所深草北陵
漢風諡号後小松天皇
追号後小松院
(後小松天皇)
諱幹仁
別称素行智(法名)
元服1387年1月22日至徳4年/元中4年1月3日
父親後円融天皇
母親藤原厳子
子女称光天皇
小川宮
理永女王
一休宗純(一説による)
後花園天皇猶子
ほか(后妃・皇子女節参照)
皇嗣称光天皇
皇居京都御所
親署
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後小松天皇(ごこまつてんのう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:後小松󠄁天皇、1377年8月1日永和3年6月27日〉 - 1433年12月1日永享5年10月20日〉)は、日本の第100代天皇および北朝第6代天皇[注釈 1](在位:1382年5月24日永徳2年4月11日〉- 1392年11月19日明徳3年閏10月5日[注釈 2] - 1412年10月5日応永19年8月29日〉)。は幹仁(もとひと)。

後円融天皇の第一皇子。母は内大臣三条公忠の女の三条厳子(通陽門院)。禅僧一休宗純は後小松の落胤と伝わる。
生涯

日野資教邸で養育される。永徳2年(1382年)4月、父の後円融天皇譲位を受けて6歳で即位、後円融上皇による院政が行われた。朝廷内部にまで政治的影響力を及ぼし多くの公家を主従関係の下に置いた室町幕府3代将軍足利義満と上皇の関係は険悪であり、両者は対立する。

明徳3年閏10月5日1392年11月19日)、明徳の和約により、南朝の後亀山天皇から三種の神器を譲り受ける形で南北朝合一。

明徳4年(1393年)に後円融上皇が崩御すると、義満はさらに朝廷への影響を強め、上皇の権勢を継承し、後世「義満の院政」などと呼ばれる権力を振るった。

応永19年(1412年8月29日、後小松は皇子の實仁親王(称光天皇)に譲位し、院政を開始。これは明徳3年(1392年)の南北朝合一の際の条件である両統迭立に反しており、その後南朝勢力はしばしば反発して武装蜂起する。

治天の君としての後小松の立場については様々な見方がある。例えば、応永27年(1420年9月16日に以前女官との密通を理由に仙洞御所から追放された院侍が復帰を求めて仙洞御所に侵入して警固に当たっていた細川氏の兵に捕らえられ、翌日六条河原で斬首された事件が発生している(『康富記』・『看聞日記』)。この事件について、横井清は後小松を「いかなる暴力装置も駆使できなくなっていた」存在と解釈し[2]、一方で井原今朝男は逮捕の命令を発したのは後小松であること、将軍義持が院侍の助命を主張しても後小松だけは一貫して院侍の殺害を主張して遂には実現させたことを指摘して公家社会、特に御所内においては幕府権力を単なる暴力装置として駆使させることが出来る程の権力を依然として保持していたと解釈している[3]。佐々木宗雄は後小松を治天の君とすることには反対ではないが、足利義満による後小松の後見という形での治天権限代行期間を経て再開された後小松の治天には、かつての伝奏を中心とした庭中文殿記録所)・雑訴沙汰(雑訴評定)・院評定(議定)などは機能しておらず、伝奏を介して室町殿(足利義持)と密着して政務を行う体制はこれまでの治天の君とは明らかに異質なものであると評価している[4]

称光天皇は病弱でたびたび重態に陥り、皇子の誕生もなく、また後小松の第二皇子小川宮も早世したため後継者問題が生じ、後小松上皇は4代将軍足利義持と協議、後継者として崇光流の伏見宮貞成親王が有力視され、一時は後小松の猶子として親王宣下された。しかし、これには称光が激しく反発したため、貞成は出家して皇位継承を断念した。

正長元年(1428年)、称光が危篤となると、6代将軍足利義教の仲介もあって、その死後に貞成の子の彦仁を猶子とし、後花園天皇として即位させた[5]

称光後花園の2代にわたり院政を行い、この間永享3年(1431年)に出家している。ただし、後小松が永享元年(1429年)10月に出家の意思を固めていたものの、義教に事前の断りを入れなかったことから義教の反発で先送りされた経緯があり、この時の義教の後小松への反感が貞成親王との関係強化につながり、後に後小松の遺志に反する貞成への太上天皇称号贈与につながったとする見方もある[6]

永享5年(1433年10月20日崩御。宝算57。

後小松の崩御によって、院政と治天の君という制度は事実上の終焉を迎えることとなった。これ以降も江戸時代光格上皇まで院政はたびたび執られたが、あくまで形式上の存在でしかなくなっていった。
追号

追号は本人の遺詔により「後小松院」と贈られた。「小松帝」とは、兄の孫にあたる陽成天皇が廃位されたのち皇位につき、その子孫が長きにわたって皇統を保った第58代光孝天皇の異名である[7]


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