後宇多天皇
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後宇多天皇
後宇多上皇像(宮内庁蔵『天子摂関御影』より)
第91代天皇
在位期間
1274年3月6日 - 1287年11月27日
文永11年1月26日 - 弘安10年10月21日
即位礼1274年5月4日(文永11年3月26日
大嘗祭1274年12月18日(文永11年11月19日
元号文永
建治
弘安
時代鎌倉時代
先代亀山天皇
次代伏見天皇

誕生1267年12月17日文永4年12月1日
土御門殿
崩御1324年7月16日元亨4年6月25日
大覚寺殿
大喪儀1324年7月19日(元亨4年6月28日
陵所蓮華峯寺陵
追号後宇多院
(後宇多天皇)
諱世仁
別称大覚寺殿
金剛性
元服1277年2月7日建治3年1月3日
父親亀山天皇
母親洞院佶子
子女後二条天皇後醍醐天皇奨子内親王
ほか(后妃・皇子女節参照)
親署
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後宇多天皇(ごうだてんのう、1267年12月17日文永4年12月1日〉- 1324年7月16日元亨4年6月25日〉)は、日本の第91代天皇(在位:1274年3月6日文永11年1月26日〉- 1287年11月27日弘安10年10月21日〉)。は世仁(よひと)。

大覚寺統の天皇。中世日本最高の賢帝の一人で、対立する持明院統花園天皇からも「末代の英主」[注釈 1]と称えられた。第一次院政期に訴訟制度改革に取り組み、大きな業績を残した。しかし、晩年は真言宗の修行への傾倒が過剰で政治を疎かにしたとも言われ、花園は「晩節を汚した」と批判する。一方、あえて政治の場を離れたのは、子の後醍醐に親政をさせて天皇としての威信と経験を積ませ、大覚寺統体制を盤石にするための、意図的な判断だったとする説もある。本郷和人は、後醍醐天皇の討幕の企てを止めさせるために、院政を止めたとしている[1]。いずれにせよ、賛否両論の晩年を入れても総合評価として英主という評は不動であり、その政治改革は後醍醐の建武政権を通して室町幕府の政策にも影響を与えている。

好学の天皇だった。書道では宸翰様の名手としても知られ、『後宇多天皇宸翰御手印遺告』(大覚寺蔵)など数点の書作品が国宝に指定されている。また、和歌にも優れ、二条派の有力歌人の一人であった。第一次院政期の勅撰和歌集は『新後撰和歌集』(嘉元元年(1303年)奏覧、撰者は二条為世)、第二次院政期は『続千載和歌集』(元応2年(1320年)奏覧、撰者は同じく二条為世)。
略歴後宇多天皇宸翰御手印遺告』(国宝大覚寺蔵)の巻頭部分

文永4年(1267年)、亀山天皇の第二皇子として誕生する。母は左大臣洞院実雄の娘、皇后佶子(京極院)。祖父・後嵯峨上皇の意志により、文永5年(1268年)生後8か月で立太子。文永11年(1274年)1月に亀山天皇から譲位を受けて8歳で践祚。亀山上皇による院政が行われた。

治世中には、高麗軍による文永・弘安の両役、いわゆる元寇が発生した。

建治元年(1275年)、亀山上皇の血統(大覚寺統)に天皇が続くことを不満に思った後深草上皇持明院統)が幕府に働きかけ、幕府の斡旋により、後深草上皇の皇子で2歳年上の熈仁親王(伏見天皇)を皇太子とする。弘安9年(1286年)に第一皇子の邦治(後二条天皇)が親王宣下を受けるが、弘安10年(1287年)、21歳で皇太子・熈仁親王(伏見天皇)に譲位した。以後、持明院統と大覚寺統による皇位の争奪に対し、調停策として出された幕府の両統迭立案に基づく皇統の分裂が続く。

第一皇子である後二条天皇(94代)の治世、正安3年(1301年)から徳治3年(1308年)まで院政を敷いた。

徳治2年(1307年)、寵妃の遊義門院が亡くなったことが契機となり、仁和寺落飾得度)を行い、金剛性と称した。そのとき、大覚寺を御所とすると同時に入寺、大覚寺門跡となった。翌徳治3年(1308年)には後二条天皇が崩御したため、天皇の父(治天の君)としての実権と地位を失い、後醍醐天皇即位までの間、政務から離れる。この頃から、真言密教に関心を深め、正和2年(1313年)、かねてからの希望であった高野山参詣を行った。参詣の途中、山中にて激しい雷雨に遭い、気を失うほど疲労してしまい、供をしている者が後宇多法皇に輿に乗られるように勧めたが、高野山に到着するまで輿に乗らなかったという。真言密教に関する著作として『弘法大師伝』『後宇多天皇宸翰御手印遺告』などがある。大覚寺で院政を執ったときに法印・法眼・法橋などの称号・位階を設け、この称号の授与に関する権限を大覚寺に与える永宣旨(永代にわたり有効たる宣旨)を出した(ただしこの永宣旨は明治維新を迎えると廃止された)。また、仁和寺の御室門跡が法性法親王の没後、寛性法親王が後任に決まるまで、別当を代行していた禅助(中院通成の子)に迫って門跡だけが知り得る秘儀「密要抄」の内容の伝授を受けようとして法性に阻止されている(「密要抄」のような秘儀の相承は門跡の正統性の要件の1つであり、師弟関係にない他寺の人間に流出することは門跡の存続に関わる事態であった)。これは後宇多院による御室門跡の事実上の乗っ取り策であったとみられているが、これが失敗に終わったために自らを祖とする「大覚寺法流」と呼ばれる新たな門跡の素地となる法流を作りだした[2][3]

また、大覚寺と並んで東寺に対しても積極的な庇護を与え、徳治3年(1308年)には後二条天皇からの勅命の形で東寺及び広沢流と縁が深い益信に「本覚大師」の諡号を授与したことに延暦寺が反発、真言宗と天台宗の争いに発展するだけでなく持明院統や鎌倉幕府まで巻き込むなど政治問題化した[4]北畠親房は『神皇正統記』の中で後醍醐天皇の美点として、父院の信仰を受け継ぎながらも真言宗だけではなく他の宗派への配慮も欠かさなかったことを挙げて、後宇多院の真言宗を極端に重視した宗教政策を間接的に批判している[5]

持明院統の花園天皇を挟んで、第二皇子の尊治親王(後醍醐天皇)が文保2年(1318年)に即位すると再び院政を開始。


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