後光明天皇
[Wikipedia|▼Menu]

後光明天皇
後光明天皇像(愛宕通福筆、泉涌寺蔵)
第110代天皇
在位期間
1643年11月14日-1654年10月30日
寛永20年10月3日 - 承応3年9月20日
即位礼1643年12月2日(寛永20年10月21日
元号寛永
正保
慶安
承応
時代江戸時代
征夷大将軍徳川家光
徳川家綱
摂政二条康道九条道房一条昭良
関白一条昭良→近衛尚嗣二条光平
先代明正天皇
次代後西天皇

誕生1633年4月20日寛永10年3月12日
崩御1654年10月30日(承応3年9月20日)寅刻
下御所(仮皇居)
大喪儀1654年11月23日(承応3年10月15日)
陵所月輪陵
追号後光明院
(後光明天皇)
1654年11月23日(承応3年10月15日)追号勅定
諱紹仁
1643年2月3日(寛永19年12月15日)命名
称号素鵞宮
元服1643年11月8日(寛永20年9月27日
父親後水尾天皇
母親園光子(壬生院)
子女孝子内親王(礼成門院)
皇居土御門東洞院殿
下御所(仮皇居)
親署
テンプレートを表示

後光明天皇(ごこうみょうてんのう、1633年4月20日寛永10年3月12日〉- 1654年10月30日承応3年9月20日[1])は、日本の第110代天皇(在位: 1643年11月14日寛永20年10月3日〉 - 1654年10月30日〈承応3年9月20日〉)。は紹仁(つぐひと)。幼名は素鵞宮(すがのみや)。

後水尾天皇の第四皇子。母は贈左大臣園基任の女の園光子(壬生院)。養母は後水尾中宮の徳川和子(東福門院)。
生涯

寛永10年(1633年3月12日に誕生。

寛永19年(1642年9月2日儲君となり、12月15日親王宣下

寛永20年(1643年9月27日に11歳で元服10月3日明正天皇譲位を受けて践祚、同月21日に即位礼を挙行した。

在位期間の12年は、将軍徳川家光から家綱の時代に相当している。東福門院(徳川和子)が養母とされたため、徳川氏は形式的ながら外戚の地位を保ち続けた。

承応3年(1654年)9月20日、痘瘡により崩御宝算22。10月15日に後光明院と追号された。

崩御前年から体調を崩し、末弟の高貴宮(後の霊元天皇)を猶子に迎えている[注釈 1]。突然の崩御のため、後年には幕府による毒殺説も生じた[注釈 2]。また、天皇の急な崩御により、次の天皇を建てる会議が開かれたが、弟の高貴宮はまだ幼すぎるので、弟の花町宮良仁親王が中継ぎの天皇となった。
人物

天皇は儒学に傾倒して典礼を重んじ、朝儀再興を目指した。また、天皇は武芸を学ぶなど激烈で直情径行的な性格の持ち主であり、反幕府的な態度をとっていたともいわれるが、その反面で幼少から学問を好み、特に儒学漢学を尊重して、これを奨励した。初め明経家の伏原賢忠から『周易』の伝授を受け、後に程朱学派に傾倒すると、二条康道の推薦で民間から朝山素心を招き入れて進講を受けている。

慶安4年(1651年)9月には、儒者藤原惺窩の功績を称えてその文集に勅序を与えた。天皇が庶民の書に序文を賜うことは、これが最初という。また、漢詩文作を好み、御集に『鳳啼集』がある。このような経学への傾倒に対し、和歌や『伊勢物語』・『源氏物語』などの古典を柔弱として斥ける風もあったが、在位中は朝儀再興に心を砕いており、正保3年(1646年)に神宮例幣の儀を再興した。釈奠大学寮の復興、服制の改革をも意図していたというが、これらは崩御のために実現しなかった。
逸話

天皇は
剣術を好んだが、京都所司代板倉重宗が「関東へ聞こえましてはよろしくございません。もしお止めなさらぬ時は、この重宗、切腹せねばなりませぬ」と諌めた。すると、天皇は「未だ武士の切腹を見たことがない。南殿(なでん)に壇を築いて切腹せよ」とのこと。これに対して、重宗は大いに閉口し、幕府も畏服したという[2]

天皇は常々「朝廷が衰微したのは、和歌源氏物語が原因」と論じて、源氏物語を淫乱の書と決め付け、その類のものを一切読まず、また和歌も詠まなかったという[3]。なお漢詩は生涯に、歴代天皇のうち第二位となる98首遺した[注釈 3]。しかし、禁中に臨幸した後水尾院から詠歌を促されると、天皇は供御の来る間にたちまち10首の歌を詠み上げ、これを見た院が深く感じ入ったという所伝もある[4]

父の後水尾院が病に罹ったので天皇は見舞いを思い立ったが、所司代の重宗から「朝覲行幸には幕府への伺いが必要である」と横槍が入った。天皇は行幸を中止し、禁中の南東隅の築地から院御所の北西隅までの高廊下を急ぎ造らせた。そして「禁裏の内の行幸は常のこと」と言い、廊を渡って遂に見舞いを決行したという[5]
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに承応遺事の原文があります。

平生酒を嗜んだが、ある酒宴の席で徳大寺公信より酒の飲み過ぎについて諫言された。天皇は顔色を変え、剣を取って切り捨てようとすると、公信も「諫言さえお容れになるのなら、身命は惜しみません」と言って御前を去らず、侍臣らが執り成してその場を治めた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:64 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef