後亀山天皇
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後亀山天皇
後亀山天皇像(大覚寺蔵)
第99代天皇
南朝第4代
天皇
在位期間
1383年冬 - 1392年11月19日
弘和3年冬 - 元中9年閏10月5日
元号弘和
元中
時代室町時代南北朝時代
関白二条冬実近衛某
先代長慶天皇
次代後小松天皇

誕生1350年正平5年)[1]
賀名生行宮
崩御1424年5月10日応永31年4月12日
大覚寺
陵所嵯峨小倉陵
追号後亀山院
(後亀山天皇)
諱熙成
別称大覚寺殿、大覚寺法皇、小倉法皇
金剛心(法名)
父親後村上天皇
母親藤原氏(阿野実為女? 嘉喜門院?)
中宮不詳
子女小倉宮恒敦
皇居栄山寺行宮
吉野行宮
親署
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後亀山天皇(ごかめやまてんのう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:後龜山天皇、1350年正平5年〉[1] - 1424年5月10日応永31年4月12日〉)は、日本の第99代天皇、および南朝第4代天皇(在位:1383年弘和3年/永徳3年〉冬 - 1392年11月19日元中9年/明徳3年閏10月5日〉)。は熙成(ひろなり[2])。

北朝を擁護する将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器を北朝の後小松天皇に伝えて、南北朝合一を実現した。

長らく皇位が否定されてきたが、1911年明治44年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇に加えられることとなった。
生涯栄山寺行宮跡大覚寺正寝殿

出生・生い立ちは明らかでないが、兄・長慶天皇践祚した正平23年/応安元年(1368年)3月から8月までの間に立太子され[3]東宮(皇太弟)として既に天皇の政務を補佐していたようである。

弘和3年/永徳3年(1383年)冬に長慶天皇の譲位を受けて践祚。当時の行宮栄山寺奈良県五條市)であったらしい。この皇位交替の背後には、室町幕府への姿勢をめぐって強硬派の長慶と和平派の後亀山との間で内部対立があり[4]、最終的に参議楠木正儀ら和平派の台頭が契機で後亀山の即位が実現したと考えられている。在位の9年間はちょうど南朝政権の衰退期に相当する。政令が及ぶ範囲は大和河内和泉紀伊などの行宮を中心とした地方の他、九州の征西府や四国の河野氏の勢力域に限られ、将軍足利義満の下で隆盛を極める幕府との実力差は否定すべくもなかった。宗良親王懐良親王が世を去り、威勢を失った南朝にとって、和平による合一は必至の情況となっていた。

元中9年/明徳3年(1392年和泉紀伊守護である大内義弘が南朝の吉田宗房阿野実為と接触して下交渉を始める。10月には義満から吉田兼熙を通じて両朝講和のための条件提示がなされ、天皇はついにこれを受諾した(明徳の和約)。同月28日に南朝君臣は神器を奉じて吉野を出立し、閏10月2日に京都大覚寺に到着。同月5日三種の神器のみが大覚寺から北朝後小松天皇土御門内裏に移された[5]。ここに南北朝時代は終わり、皇統は北朝の一統に帰することとなった。これに伴い、南朝元号である元中は廃絶し、天皇の弟で東宮位にあった護聖院宮惟成親王か)は事実上廃太子された。後亀山は後年、両朝合一を決断した理由に関して、自らの運命をひとえに天道神慮に任せ、民間の憂いを除くためだったと述懐している[6]。合一後、大覚寺を仙洞とした後亀山は「大覚寺殿」と称されて、幕府の被扶養者としての待遇に甘んじなければならなかった。

明徳5年(1394年2月6日天竜寺にて初めて義満と面会し、その結果、同月23日に「不登極帝(即位しなかった天皇)」として太上天皇(上皇(じょうこう))の尊号を贈られた。その詔書は、延元元年/建武3年(1336年11月2日北朝の光明天皇が南朝の後醍醐天皇(後亀山の祖父)に対して太上天皇号を贈った例に準ずるものとされたが[7]、幕府が旧北朝と後亀山双方の体面を保つために採用した苦肉の策であった。

応永4年(1397年11月27日、尊号および兵仗を辞退し、義満もこれを了承。その後は出家を遂げて金剛心と号し、ひたすら隠遁生活に入る。それでも、阿野実為・公為父子や六条時熙など、わずかな公家が側近として仕えており、吉田兼熙・兼敦父子が神道進講することもあった。

ところが、応永17年(1410年)11月27日突如嵯峨を出奔して吉野に潜幸し、以来ここで6年を過ごしている。この事件に関して、『看聞日記』には生活上の困窮によるものとするが、当時の幕府が講和条件の一である両統迭立を破って、後小松天皇皇子の躬仁親王(後の称光天皇)の即位を目論んでいたことから、そのような動静に不満を抱く後亀山法皇の抗議行動であったとも考えられる。しかし、その甲斐もなく、応永19年(1412年)称光天皇が践祚。 応永22年(1415年)これに反発した伊勢国司北畠満雅が蜂起するも、説成親王(後亀山の弟か)の調停によって幕府との和睦が成立したため、応永23年(1416年)9月に広橋兼宣らの仲介で法皇は大覚寺に還御した。東国情勢などで不安要素を抱えていた幕府は、旧南帝を吉野の山中に放置しておくことの危険性を熟知していたので、所領回復を条件に後亀山の還御を再三要請したのである。

応永31年(1424年4月12日、雷鳴のとどろく夜に大覚寺で崩御。宝算は75とも78ともいう[1]。後亀山が果たせなかった皇位回復の遺志は子孫の小倉宮に受け継がれ、やがて後南朝による幕府への抵抗運動を惹き起こした。
人物

正平20年(1365年)の『内裏三百六十首歌』に「無品親王」として、天授元年(1375年)の『五百番歌合』に「源資氏」の隠名で詠進したのは、親王時代の後亀山院か。


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