後三条天皇
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後三条天皇
後三条天皇
第71代天皇
在位期間
1068年5月22日 - 1073年1月18日
治暦4年4月19日 - 延久4年12月8日
即位礼1068年8月21日(治暦4年7月21日
大嘗祭1068年12月19日(治暦4年11月22日
元号治暦
延久
時代平安時代
先代後冷泉天皇
次代白河天皇

誕生1034年9月3日長元7年7月18日
平安京(現・京都市  日本
崩御1073年6月15日延久5年5月7日
大炊御門殿
平安京(現・京都市  日本
大喪儀1073年6月25日(延久5年5月17日
陵所円宗寺陵・京都市
追号後三条院
(後三条天皇)
尊仁(たかひと)
別称金剛行(法名)
延久帝
元服1047年1月17日永承元年12月19日
父親後朱雀天皇
母親禎子内親王
中宮馨子内親王
女御源基子
藤原昭子
夫人藤原茂子
子女聡子内親王
白河天皇
俊子内親王
佳子内親王
篤子内親王
実仁親王
輔仁親王
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後三条天皇(ごさんじょうてんのう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:後三條天皇、1034年9月3日長元7年7月18日〉- 1073年6月15日延久5年5月7日[1])は、日本の第71代天皇(在位:1068年5月22日治暦4年4月19日)- 1073年1月18日(延久4年12月8日))。尊仁(たかひと)。

後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇の第三皇女で後朱雀皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏外戚としない天皇である。後述のように両親はともに藤原道長外孫であり、後三条天皇自身は道長の外曾孫に当たるが、当時の認識に戻れば後三条天皇自身、「摂政・関白が重く恐ろしいのは(朝家の重臣であるからでなく)天皇にとって尊属であるからだ。我は何とも思わぬ」という言葉を発した。
生涯
幼少時

後一条天皇皇太弟の敦良親王(後の後朱雀天皇)の第二王子として生まれる。父の即位に伴い、長元9年12月に親王宣下を受ける。異母兄の後冷泉天皇の即位にあたり、寛徳2年(1045年)1月16日、12歳で皇太弟となる。
東宮時代

生母が藤原氏の出でない(道長の外孫ではあるが、関係は悪化していた)ため、関白藤原頼通教通兄弟に疎んじられたが、彼らの異母弟の能信の支援を受けたと言われている。『今鏡』によると、後朱雀天皇が尊仁親王を兄の親仁親王(後冷泉天皇)の皇太弟にと考えていたのを、頼通が抑えていたのに対し、能信が強く薦めて、その遺詔により皇太弟となる事が出来たとある。しかし、頼通や教通は、後冷泉天皇の後宮に娘を入内させて外祖父として権力を握るために、尊仁親王に対して陽に陰に圧迫を加えていた。その一例として、歴代の東宮が伝領する「壺切御剣」を頼通が「藤原氏(特に摂関家)腹の東宮の宝物」との理由で、23年もの間、親王即位するまで献上しなかった事が、大江匡房の談話集『江談抄』に記されている(ただし、誤伝説もある)。また永承元年(1046年)の元服の際に、頼通と疎遠で後見のない皇太子に娘を入内させる公卿はいなかった。そのため能信が妻の姪にあたる養女藤原茂子を妃に入れたが、いくら能信の養女でも実父が中納言では、東宮妃にはふさわしくないと非難されている。

ただし、尊仁親王の祖母はともに藤原氏の摂関家出身(父方が藤原彰子、母方が藤原妍子)であり、親王が即位しても摂関家以外に外戚の要件を満たす家は存在しないこと、頼通が尊仁親王の妃として後一条天皇の皇女である馨子内親王を入内させていること(馨子に皇子が誕生して皇位を継承しても、頼通と皇子の血縁関係は大伯父と姪孫の関係しか構築できないのは尊仁親王と全く同じである。ただし、実際には皇子は生まれなかった)など、尊仁親王(後三条天皇)と藤原氏(摂関家)の血縁関係を「疎遠」の一言では片付けられない側面も有している。このため、頼通らは後朱雀天皇の嫡男である後冷泉天皇の系統に皇位を一本化する意図であったとする考えもある。

しかし、後冷泉天皇は、正式な后妃との間には、ついに成長した皇子に恵まれることのないまま崩御し、尊仁親王は即位した。
即位後後三条天皇、浮世絵大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側。

頼通が失意のあまり引退した後、上東門院彰子の推挙で弟の藤原教通を関白にしたが、反・摂関家の急先鋒で東宮時代の天皇を庇護していた故能信の養子の藤原能長や、村上源氏源師房源経長等を登用して摂関家の政権独占打破を図り、大江匡房藤原実政等の中級貴族などを登用し、積極的に親政を行った。また、源隆国のように、東宮時代の天皇を頼通に気兼ねして蔑ろにしていた者に対しても、隆国の息子の俊明を登用する等、決して報復的態度を取らないように公正な態度を示した。
延久の善政

後三条天皇は桓武天皇を意識し、大内裏の再建と征夷の完遂を打ち出した。さらに大江匡房らを重用して一連の改革に乗り出す。1069年治暦5年/延久元年)には画期的な延久の荘園整理令を発布して記録荘園券契所を設置し、1070年(延久2年)には絹布の制、1072年(延久4年)には延久宣旨枡估価法の制定等、律令制度の形骸化により弱体化した皇室の経済基盤の強化を図った。特に延久の荘園整理令は、今までの整理令に見られなかった緻密さと公正さが見られ、そのために基準外の摂関家領が没収される等[2]、摂関家の経済基盤に大打撃を与えた。この事が官や荘園領主、農民に安定をもたらし、『古事談』はこれを延久の善政と称えている[注釈 1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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