後一条天皇
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後一条天皇
第68代天皇
在位期間
1016年3月10日 - 1036年5月15日
長和5年1月29日 - 長元9年4月17日
即位礼1016年3月18日(長和5年2月7日
大嘗祭1016年12月16日(長和5年11月15日
元号長和
寛仁
治安
万寿
長元
時代平安時代
先代三条天皇
次代後朱雀天皇

誕生1008年10月12日寛弘5年9月11日
土御門殿
崩御1036年5月15日長元9年4月17日
清涼殿
大喪儀1036年6月15日(長元9年5月19日
陵所菩提樹院陵
追号後一条院
(後一条天皇)
諱敦成
元服1018年1月22日寛仁2年1月3日
父親一条天皇
母親藤原彰子
中宮藤原威子
子女章子内親王
馨子内親王
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後一条天皇(ごいちじょうてんのう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:後一條天皇、1008年10月12日寛弘5年9月11日〉- 1036年5月15日長元9年4月17日〉)は、日本の第68代天皇(在位:1016年3月10日長和5年1月29日〉- 1036年5月15日〈長元9年4月17日〉)。は敦成(あつひら)。

一条天皇の第二皇子。母は藤原道長中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇
略歴

一条天皇の第二皇子。母は藤原道長中宮彰子。その誕生の様子は「紫式部日記」に詳しく、道長にとって待望久しい外孫皇子出生はその後の一族の栄華の初花となる。

三条天皇の譲位(長和5年1月29日1016年3月10日)により践祚、2月7日3月18日)に数え8歳で即位。幼帝のため道長が摂政となり権勢を振るった。道長の娘で叔母にあたる、九つ年上の威子を中宮とし、(外戚の地位を藤原氏御堂流以外に渡すまいという藤原頼通と母彰子の意向により)この時代には珍しく他の妃を持たず、皇子女は内親王二人のみで世継ぎの皇子には恵まれぬまま、数え29歳で崩御した。『栄花物語』によると飲水と痩身の症状の記載があり、糖尿病によるものと考えられている。突然の崩御であったため、譲位の儀式が間に合わなかった[1]とある。『日本紀略』や『今鏡』では遺詔により、喪を秘して弟の敦良親王への譲位(後の後朱雀天皇)の儀を行ったとされている[2]。これが、在位中に天皇が崩御した場合に喪を秘して譲位の儀を行い、その後に上皇としての葬儀が行われるようになった先駆とされる[3]
系譜


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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