律宗(りっしゅう)は、戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派である。中国で東晋代に戒律について翻訳されると、唐代には道宣が成立させた。日本には鑑真が伝来させ、南都六宗の日本仏教の一つとなった[1]。
中国の律宗が四分律宗を開宗した。その後、地論宗に属する慧光(468年 - 537年)が律宗の勢力を拡張した。
唐代には南山律宗を開いた道宣が出て、『四分律行事鈔』を著述して戒律学を大成した。道宣は、慧光の系統に属しており、その門下からは、文綱・周秀・道世・弘景らの僧が出た。文綱の孫弟子である鑑真は、留学僧の要請で日本に律を伝えたとされている。
一方、法礪
(569年 - 635年)が『四分律』を研究し、相部宗を開いた。その弟子の懐素(624年 - 697年)は、法礪の『四分律疏』を批判して新疏を著わし、東塔宗を開宗した。その後、相部宗と東塔宗は衰退し、南山宗のみが栄えて、宋代まで伝承された。一方で、義浄三蔵が、多くの律書を漢訳したが、律宗の展開には影響しなかった。
日本の律宗総本山 唐招提寺
日本においても比較的初期の段階で戒律が伝えられていたものの、不完全なものでその意義が十分に理解されずに一部の寺院における研究に留まり、授戒の儀式も行われていなかった。
天平勝宝5年(753年)、鑑真が6度の航海の末に唐から招来され、東大寺に戒壇を開き聖武上皇や称徳天皇を初めとする人々に日本で初めて戒律を授けた。後に唐招提寺を本拠として戒律研究に専念し、南都六宗の一つとして今日まで続いている。鑑真が伝えたのは『四分律』によるものだった。 平安時代の最澄や空海はこれを支持せず、最澄は延暦寺に独自の戒壇を設置し受戒を始めた。空海は『十誦律』を重んじたが、受戒については南都六宗と同様に東大寺にて行うなど態度に違いがある。このため、戒律に関する考え方が日本では分散化し、律宗は衰微した。また、受戒そのものは東大寺・延暦寺を中心に盛んに行われたものの、官僧の資格をえるためのものとなり内容は形骸化していった。
平安時代以降
なお、明治初期には、唐招提寺を例外として他の律宗寺院は全て真言宗に所轄されたが、1900年(明治33年)律宗として独立した。
宗義)
大本山 壬生寺(京都市中京区)
その他の寺院body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper{margin-top:0.3em}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ul,body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ol{margin-top:0}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper--small-font{font-size:90%}