律令国
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令制国の一覧:1869年1月19日明治元年12月7日)の陸奥国5分割および出羽国2分割と、同年9月20日(明治2年8月15日)の北海道11か国(ただし、千島を除く)追加を反映した。

令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づいて設置された日本地方行政区分である。律令国(りつりょうこく)ともいう。飛鳥時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。現在は行政区分としての機能は失われ、単なる地理的区分となっている。ただし、その地理的区分としての機能も都道府県に取って代わられつつある。

令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ、こう)や府中といった。
用語

令制国が行政体・地理区分の基本単位として用いられていた時代には、正式にも慣用的にも「」とだけ呼ばれていた。後代の20世紀以降には「旧国」「旧国名」とも呼ばれることがある。律令のうち、令によって規定される制度を令制というので、令制の国を令制国と呼ぶ。「令制国」という語は、20世紀末に用いられ始めた歴史学の用語であり、1970年代から使用例が現れる[1]が、1984年(昭和59年)2月吉川弘文館から発行された『国史大辞典第4巻』では令制国のことは「国」の項目で説明されており、文中にも「令制国」と呼ぶといった説明はない。

なお、英語ではprovinceという語が当てられる。
令制国の成立

日本の古代には、令制国が成立する前に、土着した豪族が世襲して務める国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階があった。それに対して、令制国は、中央から派遣された国司が治める国である。

日本書紀』には、大化元年(645年)、難波宮で行われた大化の改新の際に、東国に国司を派遣したという記事があり、飛鳥京跡から出土した木簡削片に「伊勢国」「近淡□(海)」などと書かれていることが判っているので、『日本書紀』の記事に信を置けば大化の改新直後、少なくとも藤原京への遷都以前にはある程度の令制国が成立していたものと推測される。しかし、昭和42年(1967年)12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上?国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され論争に決着が付けられたとともに、『日本書紀』にある大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明しており、多くの令制国が確実に成立したと言えるのは、大宝元年(701年)に制定された大宝律令からである。故に、令制国の成立時期は早ければ大化元年(645年)、遅ければ大宝元年(701年)となる。この間の段階的な制度変化の結果である可能性も高い。
令制国成立に伴い分割された国

常陸国(常陸国、陸奥国

凡河内国河内国和泉国[注釈 1]摂津国

丹波国丹波国丹後国[注釈 2]但馬国

筑紫国筑前国筑後国

火国肥前国肥後国

豊国豊前国豊後国

令制国成立以前国造の領域だったとされる、凡河内、丹波、筑紫、火、豊についてはその領域の分割と考えられるが、それ以外の国については厳密には令制国成立に伴う分割ではなく、それぞれ異なる経緯を経て成立していることに注意する必要がある。一方で、『日本書紀』には天武天皇の時代(683年から685年頃)に国境画定作業がまとまって行われた形跡[2]があることから、その際に令制国成立に伴う分割を含めた五畿七道の編成が一気に行われた可能性もある[3]
古代

律令制確立直後の、大宝4年(704年)に全国の国印が一斉に鋳造された。それを機会に国名に用いる文字が改定され、現在までつづく表記となった。

奈良時代初期の和銅6年(713年)に、元明天皇は、令制国毎に地誌風土記』の編纂を命じ、風土記の編纂の中で、国・(こおり)・(さと)などの名前は、中国の2字地名にならい良い意味の漢字2字で表記するように指示した。これは「諸国郡郷名著好字令」(しょこくぐんごうめいちょこうじれい)または 「好字二字令」「好字令」とも呼ばれたもので[4][注釈 3]畿内と七道諸国の郡・郷の名に好字を付けるように命じられ、上毛野国下毛野国木国粟国の国名が漢字2文字に統一された。

天平10年(738年)諸国の国郡図を進上させる。天平11年(739年)末頃から天平12年(740年)初めの頃に郷里制を郷制に改める。天平時代聖武天皇が政権に就いた時期には、平城京では疫病が蔓延し、社会不安が広がっていた。これを払拭すべく、光明皇后の意見も有って、天平13年(741年)令制国には国分寺(国分僧寺)・国分尼寺の建立のを出した。

平安時代延喜式には、各令制国の郡の個数が記載された。また、以下のように国力による分類(大国上国中国下国)と都からの距離による分類(畿内近国中国遠国)が行われた。

畿内近国中国遠国
大国大和国河内国伊勢国近江国播磨国越前国武蔵国上総国下総国常陸国上野国陸奥国肥後国
上国山城国摂津国尾張国三河国美濃国備前国美作国但馬国因幡国丹波国紀伊国遠江国駿河国甲斐国信濃国加賀国越中国伯耆国出雲国備中国備後国阿波国讃岐国相模国下野国出羽国越後国安芸国周防国伊予国筑前国筑後国豊前国豊後国肥前国
中国若狭国丹後国能登国安房国佐渡国長門国石見国土佐国日向国大隅国薩摩国
下国和泉国伊賀国志摩国淡路国伊豆国飛騨国壱岐国対馬国隠岐国

国力分類が上位の国ほど農業生産力が大きい。ただし上国の尾張国・美濃国・信濃国などは実際には大国と同等の農業生産力を有した。
中近世江戸時代末期の日本地図(1855年アメリカ合衆国発行):陸奥国および出羽国の分割、北海道11か国の設置、琉球処分がなされる前の状況

律令制が事実上崩壊してからも、鎌倉時代には依然として各国に国衙が置かれ、国を支配していた。南北朝時代に戦乱が全国に及ぶと、守護の力が増大し、国衙の機構を吸収するに至った。それに伴い室町時代には守護による領国支配が進行した。こうして軍事警察権のみならず国の行政権も手にした守護を守護大名、彼らの国支配体制を守護領国制と呼ぶ。

戦国時代になると、律令時代からの行政体としての国はこれを構成した荘園や公領の実態の希薄化に伴い消滅した。国司は、完全に名目だけの官職となり、惣村国人一揆といった在地の自治的結合を権力基盤として守護大名や守護代、有力な国人などから成長した戦国大名が領国支配の正当性を主張するために欲するようになる。安土桃山時代江戸時代には、地方統治は大小多様の大名と、大名に準ずる領主、江戸幕府の直轄領に分割された。領有が細分化した地方に特別な機関を置く場合を除いて、国を単位とする行政体はなかった。ただし国司を任じていたことから、名目のみ行政区分としての令制国は存在していた。また令制国全土あるいはそれに匹敵する大きさの領地をもつ大名を示す国主という家格が存在した。住所の表示には令制国が用いられ、欠かせない地理区分だった。
近現代.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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明治初期の令制国の配置図

江戸時代までとの大きな違いは国司を廃止したことであり、国司廃止によって名実共に行政的な地理区分ではなくなった。

1869年1月19日明治元年12月7日)、戊辰戦争東北戦争)に敗戦した奥羽越列藩同盟に対する処分が行われ、明治政府は陸奥(むつ)国磐城国岩代国陸前国陸中国陸奥(りくおう)国の5国に、出羽国羽前国羽後国の2国に分割した。

戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年9月20日(明治2年8月15日)、和人地および蝦夷地(北州)に北海道11か国を新たに設け、これにより五畿七道から五畿八道とした[5]

1871年(明治4年)の廃藩置県後、清の冊封を受けながら、実際には薩摩藩のコントロール下に置かれていた琉球王国は、いわゆる琉球処分の過程で、1872年(明治5年)に琉球藩とされ、1879年(明治12年)には沖縄県とされたが、その後も地名としては引き続き琉球国と呼ばれた。ただし、この「琉球国」は便宜上の用法であり、令制国の1つではなく、五畿八道にも含まれない。

1902年(明治35年)までは令制国の範囲改定が行われたりしていたことから[6]、少なくともこの年までは制度上も用いられていた。しかし、台湾朝鮮などの外地には令制国は設定されなかった。また、いったん失ったのち日露戦争後南半分が日本領に復帰した樺太大正期制定の共通法1条2項では内地と規定され、1943年昭和18年)法令上の特例が廃止され名実ともに完全な内地となったものの、同様に新たな令制国は設定されなかった。


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