待賢門院堀河
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待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ、生没年不詳)は、平安時代後期の歌人。この女房名の前に前斎院六条(さきのさいいんのろくじょう)と呼ばれていた一時期もある。女房三十六歌仙・中古六歌仙の一人。父は神祇伯 源顕仲。姉妹に、顕仲卿女(重通妾)[* 1]、大夫典侍[* 2]上西門院兵衛がいる。
経歴

白河院皇女で斎院を退いた二条大宮令子内親王に出仕、六条と呼ばれた。後に鳥羽天皇中宮・待賢門院藤原璋子に出仕し、堀川[* 3]と呼ばれるようになった。康治元年(1142年)、主人・璋子の落飾に従い、同僚の待賢門院中納言と共に出家している。少なくとも一度は結婚したらしいが、夫とは死別[1]。『金葉和歌集』以降の勅撰集歌合等の他、家集『待賢門院堀河集』にも作品を残している。
逸話

兵衛との姉妹連歌
[2]が記録されている。

  油綿をさし油にしたりけるがいと香しく匂ひければ
ともし火は たき物にこそ 似たりけれ 上西門院兵衛
丁子かしらの 香や匂ふらん      待賢門院堀河 ? 『菟玖波集』 下

主人だった待賢門院なき後、女房達は高倉三条第で翌年まで服喪していた。西行が、

  待賢門院かくれさせおはしましける御あとに 人々またのとしの御はてまで候はれけるに
  みなみおもての花ちりけるころ堀河の局のもとへ申しおくりける
尋ぬとも風のつてにもきかじかし 花と散りにし君が行方を
  かへし
吹く風の行方しらするものならば 花とちるにもおくれざらまし ? 『山家集』 巻中 雑「あの方はどこに行ってしまったのでしょう」と問いかけたのに対し「それがわかるなら私もついて行ったのに」と応じている[3]。主のいない法金剛院を訪ね、ヒグラシの声に[4]

  待賢門院かくれさせ給て後六月十日比 法金剛院にまいりたるに
  庭も梢もしけりあひてかすかに人影もせさりけれは
  これに住そめさせ給し事なとたゝ今の心ちして哀つきせぬに
  日くらしの声たえす聞えけれは                   堀川
君こふるなけきのしけき山里は たゝ日くらしそともに鳴ける ? 『玉葉和歌集』 巻第十七 雑歌四思えば法金剛院が最も華やかだったのは、崇徳天皇行幸[5]の頃だった。

  崇徳院の御時 法金剛院に行幸ありて 菊契千秋といふことを講せられ侍けるに 待賢門院堀川
雲のうへの星かとみゆる菊なれは 空にそちよの秋はしらるゝ ? 『続古今和歌集』 巻第二十 賀歌

幼い子供を残して夫が死んだ[1]

  具したる人の亡くなりたるを嘆くに おさなき人の物語りするに
言ふかたもなくこそ物は悲しけれ こは何事を語るなるらむ ? 『待賢門院堀河集』子供は父のもとに預けて養育した[6]

  子日にあたりたりける日 神祇伯顕仲もとにやしなひたりける児のもとへ申つかはしける 待賢門院堀川
いさけふは子日の松の引つれて 老木の千代を友にいのらん ? 『新千載和歌集』 巻第十六 雑歌上子(ね)の日の小松引きは、現代の門松の起源となった行事だが、その日にあたって「おじいさんと孫」の健康長寿を願う様子がうかがえる。

西行に無視され素通りされたと怒ってみせた堀河だが[7]

  西行法師をよひ侍けるに まかるへきよしは申なからまうてこて
  月のあかかりけるに門の前をとをるときゝて よみてつかはしける 待賢門院堀川
西へ行しるへと思ふ月影の 空たのめこそかひなかりけれ[* 4] ? 『新古今和歌集』 巻第二十 釈教歌彼女自身が、春日明神の前を素通りしてしまったこともある[8]

人しれす今や今やと千はやふる 神さふるまて君をこそまて
  このうたは 待賢門院堀川 やまとのかたよりくま野へまうてはへりけるに
  春日へまいるへきよしの夢を見たりけれと のちにまいらむとおもひてまかりすきにけるを
  かへりはへりけるに侘宣したまひけるとなむ ? 『新古今和歌集』 巻第十九 神祗歌
作品
勅撰集

歌集名作者名表記歌数歌集名作者名表記歌数歌集名作者名表記歌数
後拾遺和歌集金葉和歌集前斎院六条6詞花和歌集待賢門院堀川2
千載和歌集待賢門院堀川
待賢門院ほりかは
待賢門院のほりかは11
1
3新古今和歌集待賢門院堀川2新勅撰和歌集待賢門院堀川
待賢門院堀河1
2
続後撰和歌集待賢門院堀河7続古今和歌集待賢門院堀川
堀川
待賢門院堀河3
1
2続拾遺和歌集待賢門院堀河
堀河3
1
新後撰和歌集待賢門院堀河2玉葉和歌集待賢門院堀河
堀川4
1続千載和歌集待賢門院堀河2


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