役者絵
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役者絵(やくしゃえ)とは、日本江戸時代から明治時代にかけて製作された浮世絵の画題のひとつで、歌舞伎役者を描いたもの。
解説

歌舞伎の始まりは通俗的には出雲の阿国からといわれており、この阿国が舞台を勤める様子を描いた屏風絵などが残っている。しかし通常これらは「役者絵」とは呼ばれない。やがて歌舞伎を演じる役者の舞台姿は浮世絵の画題のひとつとなり、その肉筆画や木版画が製作されるようになった。元禄時代には江戸で木版の役者絵が多く製作されるようになる。ただしこの時分はまだ墨摺絵に手で彩色を施す丹絵漆絵であり、役者の顔も実際の容貌にもとづいたものではなく、たとえば立役のこの役柄ならこの顔、女形ならこの顔というように一定の型に嵌め、それに役者名を添え衣類に役者の紋を入れることで、特定の役者を表すというものであった[1]

最初にこの役者絵を多く手がけるようになったのが、鳥居清元を濫觴とする鳥居派である。鳥居派は「ひょうたん足」、「みみず描き」といわれる画法で以って役者絵を描き、木版画だけではなく劇場の絵看板や番付などの絵も手がけ、特に劇場の絵看板は他派の絵師の関与が許されないようになった。鳥居派の画風で描かれる絵看板は現代にまで続いている。木版の役者絵は鳥居派だけではなく他派の絵師たちも描いており、宝暦のころには奥村利信西村重長などが一枚摺りの役者絵を残しているが、これらも実際の役者の顔に似せて描こうとするものはまだ出なかった。ただしその中でも鳥居清重は、四代目市川團十郎などを実際の容貌に似せて描いているのが注目される[2]

明和の時代になると錦絵が現れ、役者絵も役者の顔に似せて描いたものが製作されるようになる。この時期の似顔の役者絵のさきがけとなったのが勝川春章一筆斎文調である。春章と文調との合作で明和7年(1770年)に刊行した『絵本舞台扇』が知られる。文調は安永になると役者絵を描かなくなってしまうが、春章は当時活躍した役者を錦絵で多く描き、以後春章を祖とする勝川派の絵師たちも、春章にならって似顔の役者絵を多く手がけた。

時代が寛政に移り、鳥居派や勝川派のほかに初代歌川豊国が現れ、これも「役者舞台之姿絵」などの似顔の役者絵を手がけるようになった。この時期にはほかに歌川国政も役者絵を描いた。東洲斎写楽も役者絵を出しているが短い期間で終わり、豊国が主流となって文化文政の時期にも多くの役者絵を手がけた。そして役者絵は勝川派から初代豊国の流れをくむ歌川派の手に移り、明治に至るも歌川派の絵師たちが多くの役者絵を描いている。

天保の改革の時には江戸三座が幕府の命令で浅草に移転させられ、役者絵も版行することを禁じられたが、改革の中心にいた水野忠邦が失脚して後、江戸では弘化3年(1846年)頃から役者名を記さないものが版行されている。江戸で役者名と役名の揃った役者絵が再び版行されるようになったのは、万延元年(1860年)ごろのことである[3]

役者絵には舞台で役に扮した姿のほかに、『役者夏の富士』のように役者の日常を描いたものや、役者が亡くなった際に版行される「死絵」というものもあった。しかし写真の登場により浮世絵師の描く役者絵は、マスメディアとしての役割を明治時代でほぼ終えることになった。澤村小傳次の露の前。元禄12年(1699年)3月、江戸中村座『関東小禄』より。作画者と版元が明らかな一枚摺りの役者絵として最古とされるもの。鳥居清信画。初代市川團十郎の竹抜き五郎。團十郎の顔は似顔絵にはなっておらず、衣裳に團十郎の定紋である三升の紋が入る。鳥居清倍画。『絵本舞台扇』より、初代坂田半五郎の大星由良助。それまでの役者絵とは違い、実際の役者の顔に似せて描こうとしているのがうかがえる。春章画。三代目市川高麗蔵の佐々木巌流。三代目高麗蔵はのちに五代目松本幸四郎を襲名し、容貌から「鼻高幸四郎」とあだ名されたが、その「鼻高」の特徴をよく捉えている。初代豊国画。八代目岩井半四郎の杜若浅妻実ハ出羽守妻おさめ。使われている赤色は、「アニリン紅」という主に明治期の錦絵に用いられた着色料である。豊原国周画。

上方の役者絵三代目中村歌右衛門の熊谷次郎直実。


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