彷徨五年
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彷徨五年の中心人物である聖武天皇

彷徨五年(ほうこうごねん)[1]は、奈良時代天平12年(740年)から天平17年(745年)5月にかけて、聖武天皇が当時の都であった平城京を突然捨て、新規に建設した恭仁宮紫香楽宮、副都として整備されていた難波宮の3か所を転々としながら政治を行った時代[2]。天平12年10月29日に天皇が伊勢方面へ旅立った東国行幸に始まり、天平17年5月11日に天皇が平城京に戻るまでを指す。
彷徨五年の間に首都とされた宮

奈良時代以前には首都以外に副都が運営されることがあった。当時の先進国であったは首都として長安洛陽の2箇所の都城を設けており、天武天皇はこれに倣って孝徳天皇以来の難波宮(前期難波宮)を当時の首都飛鳥宮に対する副都として天武13年(683年)に再整備したが、朱鳥元年(686年)の大火で全焼した[3][4]。またこれらほど大規模でない離宮もいくつか設けられており、恭仁宮のすぐ南には聖武の2代前の元明天皇の時代から歴史に登場し、彷徨五年の直前に聖武が複数回訪れた.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}甕原(みかのはら)離宮があった[5][6]。なお唐は723年に長安城・洛陽城・太原城の三都制を導入したが、この情報は天平7年(735年)に帰国した遣唐使によって、当時の最新知識として日本にもたらされている[7]
平城京の副都として整備されていた難波宮

難波宮の中枢部の遺跡は現在の大阪城の南にあるが[8]、聖武の意思によって彷徨五年が始まる10年以上前から再整備が進んでいた。聖武は瀬戸内海の海上交通の重要拠点である難波の地を重視し、即位の2年後の神亀3年10月から藤原宇合を知造難波宮事に任命し平城京の副都として難波宮の再整備に着手した(後期難波宮)[3][9]。工事は天平4年(732年)にほぼ一段落し、宇合や作業に従事した仕丁以上の者に物を賜り、天平6年には官人らに難波宮での宅地が班給された[10]
物流拠点に建設された恭仁宮

恭仁宮は平城京の北東に位置し、東西に流れる泉川(現在の木津川)を挟んで、中枢部の大極殿内裏などは川の北側に、それ以外の建物は川の南側に建築された。また内裏などがあった左京と、川港のあった右京は鹿背山で隔てられていたと考えられている[11]。右京には恭仁宮の建設が始まる前から、平城宮に直結する道路と木津川を利用した水運に関わる大きな港(泉津)があった。平城京内外の大規模な官衙や寺院の建物に使用される木材は、近江国から瀬田川と泉川を通ってここに集められ、奈良盆地へ送られた。[12]。1973年から継続している発掘調査によれば、恭仁宮の中心部の面積は平城宮の1/3、大極殿や朝堂院も平城京に比べて大幅に縮小されていた[13][14]。なお都の中央を川が横切る形態は唐の洛陽城(城内の中央を洛水が流れる)に倣ったとされる[15]
大仏が置かれた紫香楽宮

紫香楽宮は現在の滋賀県甲賀市信楽町に建設された。琵琶湖からは遠い山間の小盆地で、聖武が最初に大仏の造立を始めた地だが、この大仏は完成しなかった[16]。始め紫香楽宮という離宮として建設が始まり、後に本格的な首都(甲賀宮と呼ばれた)となるべく工事が進められた[17]
彷徨五年の推移

聖武天皇が彷徨五年を開始する前の数年間は天災や疫病が多発していた。天平4年(732年)夏の干ばつと、翌天平5年の飢饉と、飢饉によって体力を失った庶民が疫病の流行で多数亡くなった[18]、天平6年4月7日には平城京と周辺の畿内諸国に大きな被害を与えた大地震[19]が発生した。天平7年(735年)8月に大宰府からの「疫病による死者が多い」との知らせに始まった天然痘の流行は翌年には一旦収まるが、天平9年に再度大流行した。この年の天然痘の流行は非常に大規模なもので、当時の政権中枢にいた藤原四兄弟が4人とも亡くなり[20]、日本人口の25から35%[21]、あるいは30から50%[22]が減ったとされる。平城京内には多数の死骸が放置され屍臭が内裏まで漂った。以後の聖武は藤原四兄弟に替わって太政官の主班となった橘諸兄とともに窮民救済に当たる[23]と同時に、仏教の力によってこの穢れを浄化する政策を強力に進め始める[24]
遷都の計画

通常遷都を行う場合は実行の数年前に天皇が遷都の詔を発し、十分に準備を行って移動するものである。例えば和銅3年(710年)に行われた藤原京から平城京への遷都の時は、まず3年前の慶雲4年に文武天皇が群臣たちに遷都について詮議させ、2年前の慶雲5年(708年)に元明天皇が遷都の詔を発した上で実施している[25]。しかし恭仁宮への遷都が正史に出てくるのは、聖武や群臣が東国行幸中の天平12年12月6日(遷都の9日前)に「右大臣橘諸兄が遷都に備えて恭仁郷を整備する」という記録[26]が最初という異例な状況であった。しかし聖武が遷都の前年の天平11年から恭仁宮の予定地周辺を三度訪れたという記録があり、その頃から遷都への構想を持っていたと考えられる。即ち天平11年3月2日から5日に恭仁宮予定地の南隣にある甕原離宮に行幸した後、3月23日には元正太上天皇を伴って再度行幸し3日間滞在している。2回目の行幸は、聖武に皇位を譲ったとはいえ未だに大きな政治的影響力を持つ元正太上天皇に遷都構想の了承を得るためだったとされる[27]。翌天平12年5月10日には恭仁宮予定地に近くにあった橘諸兄の相楽別業を訪れおり、その際に諸兄は宴を開いて天皇をもてなした[28]
藤原広嗣の乱と東国行幸彷徨五年の年表

天平12年8月29日九州の大宰府にいた藤原広嗣が聖武に上表文を提出し、「時政の得失」と「天地の災異」を指摘し、下道真備玄ムを排除するよう主張した[29]。聖武と政府はこれを反乱と断定し9月3日には大野東人を大将軍とする征討軍を編成し派遣することを決めた。大宰少弐であった広嗣が九州各地から集めた反乱軍と東人の征討軍は10月の初めに北九州の板櫃川で対峙し、都から派遣された勅使と広嗣が問答を行い、返答に窮した広嗣自身が退却したため反乱軍は戦わずして鎮圧された[30][31]。この報告は10月9日に平城の聖武の元に届いた[32]。この報告を受けた聖武は東国行幸の手配を開始し、10月19日に行幸先の天皇の宿舎を整備する造伊勢国行宮司を任命、10月23日に行列に随行する官人が指名され騎兵400騎が招集された[33]。10月25日には征西大将軍大野東人に対し、「まだその時ではないが、思うことがあって出立する」という勅が下された[34]。平城京の留守官には知太政官事鈴鹿王と兵部卿藤原豊成が任命され、10月29日に平城京を出発した[35][33]。この行幸には当時の政権の主班であった橘諸兄をはじめとして多数の上級官吏・皇族が付き従った。一行は大和を出て11月1日に伊賀、翌2日には伊勢に入り伊勢神宮に勅使を派遣したが、この地で「10月23日に広嗣がとらえられた」という報告を受け広嗣を処断すべしとの指示を出す[36]


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