彰徳路(しょうとくろ)は、中国にかつて存在した路。モンゴル帝国および大元ウルスの時代に現在の河南省安陽市一帯に設置された。
イラン方面でイルハン朝(フレグ・ウルス)を築いたフレグを始祖とするフレグ王家の投下領であった。 唐代の相州を前身とする。モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイ・カアンの治世の1232年に衛州・輝州の2州を管轄する彰徳総帥府が設置され、第4代皇帝モンケ・カアンの治世の1253年にはモンケの弟のフレグに「相之五県(=相州の5県=後の彰徳路)」が投下領として与えられている。この翌年にフレグは西アジア遠征に出発しており、フレグへの彰徳の授与は遠征に先立つ軍需品の提供という側面があったと見られる[1]。 1265年(至元2年)には彰徳総管府が設置され、懐州・孟州・衛州・輝州及び安陽県・輔岩県・湯陰県・臨?県・林慮県が所属することとされた。しかしその2年後には懐州・孟州・衛州・輝州それぞれに総管府が置かれ、また林慮県は林州に昇格された。その2年後、輔岩県が安陽県に編入されることで彰徳路の基本形が定まった。 モンケ死後の混乱の中でフレグはイラン方面で自立した(フレグ・ウルス)ため彰徳路はフレグ家の経済基盤としての価値を失い、またカイドゥの乱の勃発によって収益を輸送することすら不可能となってしまったが、クビライの治める大元ウルスでは彰徳路は依然としてフレグ家の領地であり続けた。これはクビライが名目上とはいえ全モンゴル系国家の宗主であり、諸王の権益を保全する態度を崩せなかったためと考えられる。そのため、フレグ家からは彰徳路に会計監査のための人材が派遣され、彰徳路からの収益はフレグ家の取り分として保管され続けた。 14世紀初頭、カイドゥの死によってカイドゥ・ウルスが解体してゆくとモンゴル系国家同士の連携が復活し、ユーラシアの人的・物的交流は拡大した。『ヴァッサーフ史』はフレグ・ウルス君主ガザン・カンが大元ウルスに使者を派遣したことを記し、また大元ウルスに到着した使者が帰国しようとする際に与えられた贈物について「それはフレグの受けるべき分け前であったが、モンケ・カアンの時代以来保管されていたものである。それを一艘の別のジャンク船に積載し、彼等の大使とともに友好と親善の意思を伝達するよう命ぜられた……」と伝えている。このペルシア語史料の記述により、モンケ・カアンの時代に設定された彰徳路の収益は14世紀初頭に至る迄フレグ家の取り分として保管されていたこと、それが海路によって輸送されたことが判明する[2]。 彰徳路には3県、1州が設置されていた。
歴史
管轄県
安陽県
湯陰県
臨?県
林州
脚注^ 松田1980,42-44頁
^ 松田1980,54-56頁
参考文献
松田孝一「フラグ家の東方領」『東洋史研究』第39号、1980年
表
話
編
歴
元朝の行政区分
腹裏
大都路
上都路
興和路
保定路
河間路
永平路
徳寧路
浄州路
集寧路
応昌路
全寧路
寧昌路
泰寧路
真定路
順徳路
広平路
彰徳路
大名路
懐慶路
衛輝路
東平路
東昌路
済寧路
砂井総管府
曹州
濮州
高唐州
泰安州
徳州
恩州
冠州
山東東西道
益都路
済南路
般陽路
寧海州
河東山西道
大同路
冀寧路
晋寧路
嶺北行省
和寧路
称海宣慰司
益蘭州
謙謙州
河南江北道
?梁路
河南府路
襄陽路
?州路
黄州路
南陽府
汝寧府
帰徳府
淮西江北道
廬州路
安豊路
安慶路
江北淮東道
揚州路
淮安路
高郵府
山南江北道
中興路
峡州路
安陸府
徳安府
荊門州
江南湖北道
武昌路
岳州路
常徳路
?州路
辰州路
?州路
興国路
靖州路
漢陽府
帰州
嶺北湖南道
潭州路
衡州路
道州路
永州路
?州路
全州路
宝慶路
武岡路
桂陽路
茶陵州
耒陽州
常寧州
嶺南広西道
静江路
南寧路
梧州路
潯州路
柳州路
横州路
慶遠南丹渓洞等処軍民安撫司
平楽府
鬱林州
容州
象州
賓州
融州
藤州
賀州
貴州
海北海南道
雷州路
化州路
高州路
欽州路
廉州路
乾寧軍民安撫司
南寧軍
万安軍