彭徳懐
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中華人民共和国政治家彭徳懐彭コ?
彭コ懷
Peng Dehuai

生年月日 (1898-10-24) 1898年10月24日
出生地 湖南省長沙府湘潭県烏石寨
没年月日 (1974-11-29) 1974年11月29日(76歳没)
死没地 中華人民共和国 北京市 中国人民解放軍総医院
出身校湖南陸軍将校レクチャーホール
所属政党 中国共産党
称号中華人民共和国元帥
朝鮮民主主義人民共和国英雄
配偶者周瑞蓮(婚約者)
劉坤模(1人目の妻)
浦安修(2人目の妻)
子女無し
中華人民共和国
初代国防部長
在任期間1954年9月28日 - 1959年9月17日
最高指導者毛沢東
中華人民共和国
第1・2期国務院副総理
内閣周恩来内閣
在任期間1954年9月 - 1965年1月
最高指導者毛沢東
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彭 徳懐
職業:政治家
軍人
各種表記
繁体字:彭コ懷
簡体字:彭コ?
?音:Peng Dehuai
和名表記:ほう とくかい
発音転記:ポン・ドーファイ
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彭 徳懐(ほう とくかい、簡体字:彭コ?、繁体字:彭コ懷、英語:Peng Dehuai、ポン・ドーファイ、1898年10月24日 - 1974年11月29日)は、中華人民共和国政治家軍人中華人民共和国元帥。もとの名は得華、譜名は清宗、は石穿[1]国務院副総理国防部長党中央委員会副主席党中央軍事委員会副主席を務めたが、大躍進政策を批判した為に失脚し、最後はに侵されながらも治療を拒否されるなど、紅衛兵による吊し上げの中で息を引き取った。
経歴
軍閥・国府軍時代

1898年10月24日に湖南省長沙府湘潭県烏石寨にて誕生する。貧農の出身であり、幼くして母親が病死した後に生活は困窮し、祖母と共に物乞いにより糊口を凌ぐ生活であった。9歳で家郷を離れ、13歳からは炭鉱勤務、15歳の時に洞庭湖ダム建設工事に従事している。旧制大学に入学した(『彭徳懐自述―中国革命とともに』、サイマル出版会、1986年発行に記述)。

1916年3月に17歳で湯?銘の湘軍(湖南軍)第二師第三旅第六団第一営第一連(師長・陳復初、旅長・陳嘉佑、団長・魯滌平、営長・劉?、連長・胡子茂)の兵卒となる。この頃から早くも頭角を現し、優秀な人物と見なされ班長を任せられるようになった。この時、同連の兵卒であった段徳昌(中国語版)、黄公略(中国語版)、王紹南(中国語版)、李燦、張栄生、席洪全、祝昌松、魏本栄らと秘密組織「救貧会」を組織[2]。同年8月、湯は失脚、以降北京政府での政争に伴い、湖南督軍も譚延?、安徽派の傅良佐張敬尭と頻繁に入れ替わり、更に直隷派の軍人たちも湖南省内各地に割拠し始め、各部隊の指揮官がいずれの派閥につくかで湖南軍は分裂を始める。1920年初夏、張敬尭との戦闘に参加、この功により排長(小隊長)に任ぜられる[3]。同年11月末、兵士11万人が参加した鬧餉闘争に参加。

1921年に第二師は?作賓らの湖北自治軍を支援する「援鄂自治戦争」に参加するも、直隷派の蕭耀南率いる第25師に敗退。同年夏、第六団主力は南県に、第一連は華容県注滋口鎮に駐留、彭は連長(中隊長)代理を任ぜられる。そこで敗残兵掃討の傍ら戦乱で疲弊した貧民を支援していたが、現地の地主であった区盛欽が王紹南、魏本栄ら救貧会の同志によって殺害されるという事件が起こり、彭も関与を疑われ逮捕される[2]。長沙への移送中、彭は魯滌平の後任で第六団団長となっていた袁植の計らいで脱走した[4][5]。翌年春、友人で広東の独立営営長(大隊長)であった魯広厚の下に身を寄せ、魯広厚の部隊の連長となる[6]。その後しばらく軍をやめ農家になっていたが[7]、8月、湖南軍官講武堂に入学。この頃、名を徳懐と改めた。講武堂卒業後の1923年、第六団第一営に復帰し翌年には営長代理、1926年5月、営長となる。それから間もなくして、湖南省にも北伐の軍勢が押し寄せた。湘軍は国民党の軍門に下り、国民革命軍第8軍に改編(軍長・唐生智)、彭徳懐は第8軍隷下の独立第一師第一団第一営営長となった。この頃、共産党員で第8軍第2師政治秘書長の段徳昌(中国語版)と接触した事で、次第に左傾化していく[8]1927年?介石上海クーデタを起こして第一次国共合作が崩壊すると、彭徳懐は国民党軍から追放された。翌1928年中国共産党へ入党した。その後ベトナムのグエンソンと親交を深めてインドシナ戦争で支援した。
紅軍時代

彭徳懐は入党後まもなく平江での武装蜂起を指揮し、中国工農紅軍紅五軍を結成する。彭徳懐の部隊は厳しい軍律と勇敢、団結で知られ、彭徳懐は兵士から慕われる理想的な司令官であった。その後、井崗山で篭城していた毛沢東に協力するように党から指令を受け、毛沢東や朱徳らと合流を果たす。1930年6月、彭徳懐の紅五軍は紅軍第一方面軍第三軍団に再編され、その総指揮官に就任する。井崗山を本拠に中華ソビエト共和国を樹立していた時期には紅軍の主要な指揮官を務め、多くの軍功を立てている。1934年10月からの長征にも参加し、この頃、毛沢東の信頼を得て軍功を讃える詩歌を贈られている。
日中戦争

1937年第二次国共合作によって紅軍は八路軍に改組された。彭徳懐は国民政府から国民革命軍中将の階級を授与され、八路軍副総指揮官に任命された。彭徳懐は1940年8月の百団大戦を指揮し、八路軍は損害を被りながらも日本軍補給網に損害を与えることに成功する。日中戦争末期の1945年6月19日、第7期1中全会において党中央政治局委員に選出される。同年8月23日、中央軍事委員会副主席・総参謀長に就任した。
国共内戦

国共内戦時代には西北野戦軍(後の第一野戦軍)の司令官兼政治委員・中国人民解放軍副総司令を務めた。1947年に国民党軍が延安を攻略すると一時撤退し遊撃戦で個別の敵を撃破する戦略を採り、1948年4月に延安を奪回することに成功している。1949年には西北部の五省を攻略し、西北局第一書記・西北軍政委員会主席・西北軍区司令官を兼任した。中華人民共和国成立後は中央人民政府人民革命軍事委員会副主席となった。
朝鮮戦争1950年に勃発した朝鮮戦争に志願軍として派遣された頃の彭徳懐。彭徳懐は抗美援朝義勇軍の司令官として、副司令官の朴一禹と共に成立間もない中華人民共和国、及び朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の連合軍を指揮し、国連軍と戦い抜いた。


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