徐州市(じょしゅうし、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Xuzh?u)は、中華人民共和国江蘇省の北西端に位置する地級市。
徐州は、元来は山東省南東部と江蘇省の長江以北の地域を指した漢代の地方区分の名称であった。古称は彭城(ほうじょう)[1]とも称す。市域内の沛県は劉邦の故郷であるほか、彭城は項羽の都となっていた。 徐州市の中心部は微山湖
概説
徐州市は東経116度22分、北緯33度43分から58分の間。黄淮平原の中心に位置し、大洞山、泉山、皇姑山、雲龍山などの丘に囲まれている。かつて黄河の河道があったが、現在は沂河、?河(じゅつが)など淮河支流が流れ、中国を縦断する大運河(現在の京杭運河)も街を通っている。年降水量は850mm、年平均気温は14℃。
市の面積は11,258平方km。総人口は2004年現在で916万8,500人。(うち、市街地の人口は172万9,600人)
地理徐州市街地の衛星画像小南湖
徐州一帯の地形の特徴は、平原の中に丘陵地が点在していることである。特に徐州の街は丘陵に四方を囲まれているため要害の地であり、歴代の軍勢の必争の地であった。
徐州は華北平原の東南部に位置する。地勢は北西から南東に向けて低くなっており、市域の面積の90%は海抜30mから50mの間の平野である。この平野は黄淮平原と呼ばれ、黄河や淮河と、淮河の支流である沂河・?河・泗水(沂?泗河水系)などの形成した沖積平野である。市域の面積の9.4%は海抜100m-200mの丘陵地であるが、およそ二つに分かれている。一方の丘陵群は市域中部にあり、その最高点は市内最高峰の大洞山(海抜361m)である。もう一つの丘陵群は市域東部にあり、最高点は新沂市北部の馬鞍山(海抜123m)である。
徐州市区(都市部)は低山や丘陵が取り囲んでいる。南に雲龍山、小泰山、泉山、鳳凰山に面し、東と東南は駱駝山、子房山、響山に面し、北は覇王山、枇杷山、九里山に面し、西は臥牛山、楚王山、韓山等に面している。雲龍山麓には水不足を解決するために作られた雲龍湖があり、古くから景勝地として知られ現在では公園になっている。
沂河、?河、泗水の流域(沂?泗河水系)は淮河流域の東北部に当たる非常に広い水系である。ほかに大きな川は?安河がある。また雲龍湖や駱馬湖などの大きな湖も点在する。かつては黄河も流れており、黄河旧河道が市域を貫いている。旧河道は西の河南省蘭考県の三義寨が起点であり、徐州市の豊県、銅山県、市区、?寧県を通り、浜海県の「廃黄河口」で黄海に流入していた。全長800kmに達し、徐州市域だけで191.7kmになる。旧黄河の中洲に当たる顕紅島は蘇軾(蘇東坡)の養女の蘇姑が洪水を防ごうとして殉難した場所とされる。黄河が淮河や沂河、泗水などの流路を奪ったため、これらの川はあちこちで湖を作り滞留し、しばしば洪水も引き起こしたが、1950年代に完成した新沂河などの放水路により洪水の危険は小さくなった。 中国地名の変遷 徐州は古くは彭城と称し、2600年に及ぶ悠久の歴史を有する。『尚書』(書経)の『禹貢』の篇に列記された「九州」の一つにもこの地方一帯を指す「徐州」の名がある。 戦国時代中期には宋や楚などにより彭城は争奪された。秦朝が成立すると彭城県が設置されている。秦末になると過酷な政治に対する民衆反乱が発生、現在の江蘇省一帯は農民起義の中心地となった。前209年、下相(現在の宿遷市)の住民項羽、項梁をはじめ、沛(現在の徐州市沛県)の住民劉邦らは彭城の近くの大沢郷(現在の宿州市)で起こった陳勝・呉広の乱に呼応し秦に反旗を翻した。秦の滅亡後、項羽は諸侯の連合軍を率いて「西楚覇王」と称し、楚の故地で故郷に近い彭城(徐州)を都に定め、諸侯を各地に封じた。前206年、漢王劉邦は挙兵し西楚打倒を目指し進軍。一年後、不満を持つ諸侯をまとめ60万の大連合軍を結成し項羽の都の彭城を占領することに成功したが、項羽は救援のために引き返し、彭城の戦いにおいて3万の精鋭で60万の漢の連合軍を大敗させ劉邦の一族を捕虜とすると言う古代中国でも例のない大勝利を収めた。 その戦いで劉邦は追い詰められたが、配下の韓信らの後方撹乱などで窮地を脱し再び楚に進撃、韓信が諸侯を一掃させ結束を高めた。前202年、漢軍は下?(現在の?州市)を占領し、彭城を守る将軍・項佗 前漢が成立し郡国制が採用され、初期には楚国の都城とされた。しかし中央政府と封国はその権限をめぐって対立し、紀元前154年には楚を含む各国が連合し呉楚七国の乱が発生する。楚は経済・政治の実力の面で諸侯国の中でも最強であり漢の経済・文化の中心地でもあったが、王莽が前漢を簒奪すると楚国も大きな被害を受ける。その後後漢が成立すると彭城国の都城とされている。 後漢末期、陶謙が揚州とともに支配し割拠するが、彼の死後は曹操・呂布・劉備・袁術らが徐州地方の彭城国や下?国をめぐり争奪戦を繰り広げた(下?を参照)。
歴史
建置古代
使用状況徐州市
春秋彭城邑
戦国彭城邑
秦彭城県
前漢楚国
後漢彭城国
三国徐州
西晋徐州
東晋十六国北徐州
南北朝徐州
隋徐州
彭城郡(607年)
唐徐州
彭城郡(742年)
徐州(758年)
五代徐州
北宋/遼徐州
南宋/金徐州
元徐州路
武安州(1352年)
明徐州
清徐州府
中華民国銅山県
徐州市・銅山県(1945年)
現代徐州市
項羽の都
前漢の徐州
三国時代から明清まで沛県の歌風台