彦根城
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logo彦根城
滋賀県
国宝天守(2016年撮影)
別名金亀城
城郭構造連郭式平山城
天守構造複合式望楼型 3重3階地下1階(1604年築)
築城主井伊直継
築城年1622年(元和8年)
主な城主井伊氏
廃城年1874年(明治7年)
遺構現存天守、 櫓、門、塀、馬屋
石垣、土塁、堀
指定文化財国宝(天守等2棟)
重要文化財(櫓、門、馬屋等5棟)
特別史跡
再建造物表御殿表向
位置

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彦根城(ひこねじょう)は、近江国犬上郡彦根(現在の滋賀県彦根市金亀町)[1]にある江戸時代には彦根藩の政庁が置かれた。天守、附櫓及び多聞櫓国宝、城跡は特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域である。天守が国宝指定された5城のうちの一つでもある(他は犬山城松本城姫路城松江城)。彦根八景琵琶湖八景に選定されている。
概要

江戸時代初期、現在の彦根市金亀町にある彦根山に鎮西を担う井伊氏の拠点として築かれた平山城(標高50m)。山は「金亀山(こんきやま)」の異名を持つため、金亀城(こんきじょう)とも呼ばれた。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。

明治時代初期の廃城令による破却を免れ、天守が現存する。天守[注 1]と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟[注 2]が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代のなど5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少である。

天守が国宝指定された5城の一つに数えられる[注 3]姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されたものの、近年の世界遺産登録の厳格化により、20年以上推薦が見送られている。

滋賀県は廃城令で解体された城が多く、彦根城は県内唯一の保存例である(歴史・沿革を参照)。
歴史・沿革
江戸時代玄宮園から天守を望む

徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどの名城であったが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌ったという[2]。このため琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山に彦根城の築城を開始した。

築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった。1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城した。大坂夏の陣豊臣氏滅亡後、1616年(元和2年)彦根藩により第3期工事が開始され、御殿が建造された。1622年(元和8年)、すべての工事が完了し、彦根城が完成した。その後も井伊氏は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った。

彦根城を築くにあたり、大津城、佐和山城はじめ近江国の諸城を移転や破却し、城の建設物に利用したとされる。結果として彦根藩には彦根城しか残らず、大老も出す譜代筆頭の井伊氏が諸大名に一国一城令を守る手本を示した格好になった。筆頭家老・木俣家は1万石を領していたが、陣屋を持たなかったため、月間20日は西の丸三重櫓で執務を行っていたという。徳川統治下の太平の世においては、城郭は軍事施設としての意義を失い、彦根城も西国大名の抑えのための江戸幕府の重要な軍事拠点から、藩政や年貢米の保管の場所となり、天守や櫓は倉庫等として使われた。

1854年安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。

幕末に大老を務めた井伊直弼も、35歳で藩主となるまでこの城下町で過ごしている。直弼がその時に住んだ屋敷は、「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している[注 4]
明治時代大隈重信

明治維新後、廃藩置県によって各藩の城郭はそれまでの機能を失い、建築物としても「無用の長物」となり、その多くが廃城令により廃城となったが、彦根城は当初陸軍省管轄下の施設となったため維持された。しかし、老朽化のため民間へ売却されて破却される予定となったが、明治11年の明治天皇の彦根行幸の際に供奉していた参議大隈重信が天皇に働きかけた結果、天守や櫓の保存が決定し、皇室付属地彦根御料所となり、最終的には最後の彦根藩主であった井伊直憲に下賜されて保存された[3]
昭和時代1985年の彦根城跡周辺の航空写真

1934年(昭和9年)、築城以来徳川幕府の要の役割を果たしていた彦根城には桜が植えられていなかった。これを憂いた彦根町会議員の吉田繁治郎が観光のシンボルとしてソメイヨシノの苗木1,000本を城内に植樹した。[4]

1944年(昭和19年)、井伊家から彦根市へ、彦根城およびその一帯が寄付される。

1945年(昭和20年)、8月15日夜に連合国軍が彦根市を夜間爆撃する予定であったが、同日正午の終戦の詔勅により日本の降伏が発表され爆撃は行われなかった[注 5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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