当子内親王
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当子内親王
時代
平安時代中期
生誕長保3年(1001年
薨去治安2年9月12日1022年9月29日
位階無品
父母父:三条天皇、母:藤原?子
兄弟敦明親王(小一条院)敦儀親王敦平親王、当子内親王、℃q内親王性信入道親王禎子内親王
斎宮長和元年12月4日1013年1月18日)- 長和5年1月29日1016年3月10日
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当子内親王(とうし(まさこ)ないしんのう)は、三条天皇の第1皇女。母は藤原済時の娘、皇后?子伊勢斎宮。同母兄弟に敦明親王性信入道親王など。
生涯

寛弘8年(1011年)三条天皇の即位により、内親王宣下を受ける。長和元年(1012年)12月4日、12歳で斎宮に卜定され、翌長和2年(1013年)8月21日に初斎院宮内省)、同年9月27日に野宮に入る。当時、三条天皇は、執権者である藤原道長との関係の悪化に加え、眼病を患い、皇位の危機にあった。当子内親王は、父帝を思い、「内親王を斎姫に立てるとは志が深いことです。近年は、内親王が斎宮にならない例が多いばかりです[1]。皇位は18年続くでしょう」という託宣を報告させた[2]。長和3年(1014年)9月20日、14歳で伊勢群行。この発遣の儀(「別れの御櫛」)に臨んだ際、天皇も斎宮も互いに振り返ってはならない決まりであったのを、三条天皇は別れがたさに思わず振り返ってしまったという[3]。また、伊勢に下向してからも、「伊勢神宮に怪異が無いので、治世は長く続くでありましょう」と伝えている[4]

長和5年(1016年)1月29日、三条天皇の譲位により16歳で退下し、9月3日に帰京。帰京からしばらく後、当子内親王に藤原道雅密通しているという噂が立った。これに激怒した三条上皇は皇后や親王らのとりなしも聞きいれずに道雅を勅勘、二人の手引きをしていた乳母の中将内侍をも追放し、当子は母・?子のもとに引き取られて道雅との仲を裂かれた[5]。世間では「在任中の斎宮であればともかく、この内親王は既に斎宮を退いているのだから」と同情する声もあったが、当子は悲しみのうちに自ら落飾[6]寛仁元年(1017年出家。その5年後、治安2年(1022年)に短い生涯を閉じた[7]。享年22。

なお、道雅が当子内親王と引き裂かれた後に贈った別れの歌、「今はただ思ひ絶えなんとばかりを人づてならで言ふよしもがな」(『後拾遺集』)は後に『百人一首』に採られている。
参考文献

倉本一宏『三条天皇―心にもあらでうき世に長らへば―』ミネルヴァ書房、2010年

角田文衛監修『平安時代史事典』角川書店、1994年

服藤早苗・西野悠紀子・伴瀬明美・菅原正子・久保貴子『歴史のなかの皇女たち』小学館、2002年

脚注^ この頃、遠国の伊勢に下向する斎宮よりも、斎院のほうに近親の内親王を任ずる例が多かった。
^小右記』長和3年(1014年)6月27日条による。
^大鏡』 第一巻 六十七代 三条院 二十九段
^ 『小右記』長和4年(1015年)閏6月10日条による。
^ 『御堂関白記』寛仁元年(1017年)4月10日条「相或者示云、道雅中将依嫁先斎宮、中務親王(敦儀親王)迎取参皇后宮(?子)云、其乳母至道雅云々」
^ 『小右記』寛仁元年(1017年)11月30日条によると、重病を原因とした出家とする。
^ 『小記目録』治安2年(1022)9月12日条。前斎宮逝去事。










内親王(飛鳥時代 - 江戸時代)
大宝律令施行(701年)以後で、内親王と公称した人物とする。
飛鳥時代

泉内親王

御名部内親王

水主内親王

田形内親王

託基内親王


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