当世書生気質
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『当世書生気質』(とうせいしょせいかたぎ)は、坪内逍遥(春の屋おぼろ)の小説1885年 - 1886年明治18 - 19年)刊。角書(つのがき)は「一読三歎」とある。
概要

1884年(明治17年)ごろ『遊学八少年』と題する戯作として構想したのち[1]、構想を改め1885年(明治18年)4月9日起稿[2][3]。和装活版分冊雑誌の形式で、6月24日に晩青堂より第1号を発行、翌1886年(明治19年)1月発行の第17号で完結した[4][3]。第1号(第1回)から第8号(第9回)までが前編、第9号(第10回)から第17号(第20回)までが後編である。初版の挿絵は梅蝶楼(歌川)国峰葛飾正久長原止水武内桂舟[5]。完結後、1886年に、半紙和装2冊本および四六判洋装1冊本として晩青堂より再刊された[6]

『逍遥選集 別冊第一』(春陽堂、1927年9月)に再録された際に逍遥自身による校正がなされており、表現や語句にも大幅な修正が施されている[5]

「はしがき」において、逍遥は、本作が、『小説神髄』で示した、勧善懲悪を否定し、写実主義を主張する文学論を実践したものであることを明らかにしている(『小説神髄』は本作より先に執筆されているが、版元のトラブルのため、出版は本作より後となった[7])。

明治初年の書生社会の風俗と気質をうつすことを主眼として、下宿生活、牛肉屋、楊弓店などで書生らが遊ぶ様子も描く。日本近代写実小説の第一として、『小説神髄』に展開された理論の具体化であるとされる。

ただし、文体は戯作の影響が強く、筋の中心には上野戦争彰義隊のたたかい)で生き別れになった兄妹の再会など、通俗的な側面もあったので、作者の坪内は晩年『逍遙選集』を編集したときに、この作品などの小説類をすべて〈別冊〉にくくりこんだ。

ちなみに、この小説を読んだ医学生の野口清作(後の野口英世)は、自堕落で素行の悪い人物として作中に登場している野々口精作(ののぐち・せいさく)が自分の名前とよく似ており、しかも自分と同じく医学生という設定だったため、自分が野々口精作のモデルではないかと誤解されるのを恐れて、最終的に自分の名前を「英世」に変更したというエピソードがある。実際には、この小説が出版された時、野口清作はまだ9歳の無名の子供であり、野々口精作との直接の関係はない。作者の坪内本人も、野々口精作の名前が野口清作に似ているのは全くの偶然であると関連性を否定している。ただし坪内は後に「自分の小説が野口君の奮起のきっかけになったのならば光栄だ」という旨のコメントも残している。
内容

第1回 鉄石の勉強心も変るならひの飛鳥山に 物いふ花を見る書生の運動会

第2回 謹慎の気の張弓も弛む 不図(とん)だ目に淡路町の矢場あそび

第3回 真心もあつき朋友(ともだち)の粋(すゐ)な意見に 額の汗を拭あへぬ夏の日の下宿住居

第4回 収穫(とりいれ)も絶えて涙の雨の降つゞく 小町田の豊作(でき)不作(ふでき)

第5回 心の猿の悪戯(いたづら)にて 縺初し恋の緒(いとぐち)のむかしがたり

第6回 詐りは以て非を飾るに足る 善悪の差別(けぢめ)もわかうどの悪所通ひ

第7回 賢と不肖とを問はず老と少とを論ぜず たぶらかしざしきの客物語

第8回 雨を凌ぐ人力車はめぐり?て 小町田が田の次に逢ふ再度の緒(いとぐち)

第9回 一得あれば一失あり 一我意あれば一理もある書生の演説

第10回 生兵法大きな間違をしでかして 身方をぶちのめす書生の腕立(うでだて)

第11回 つきせぬ縁日のそゞろあるきに 小町田はからずも旧知己(むかしなじみ)にあふ

第12回 学校から追出される親父の資送(しおくり)は絶える どこでたつ岡町に懶惰生(なまけもの)の翻訳三昧

第13回 心の宵闇に 有漏路(うろぢ)無漏路(むろぢ)を踏迷ふ男女の密談

第14回 近眼遠からず 駒込の温泉に再度の間違

第15回 旧人(ふるき)を尋ぬる新聞紙の広告に 顔鳥ゆくりなく由縁の人を知る

第16回 黒絽の薄羽織を媒介にて 薄からぬ縁因(えにし)を知る守山と倉瀬の面談

第17回 文意を文字通りにみや賀の兄弟 そゞろにコレラ病の報知におどろく

第18回 春ならねども梅園町に心の花の開けそむる 親と女との不思議の再会

第19回 全篇総て二十回脚色(しくみ)もやう?に 塾部屋へ倉瀬の急報

第20回 大団円

あらすじ

年代設定については後編の緒言に「明治十四、五年」[8]とあり、かつ、第9回で登場人物が「板垣の岐阜一件」(明治15年4月6日)について触れる場面[9]があることから、明治15年(1882年)と特定されている[10]

4月、東京の飛鳥山でのこと。銀行家の三芳庄右衛門、代言人の吉住潔らの花見に連れ出されていた芸妓の田の次は、偶然に書生の小町田粲爾と出会う。田の次ことお芳は、幼いときに上野戦争に際して家と両親を失い、その後養母に拾われて育てられたが、その養母も死んで孤児になったところを、粲爾の父・浩爾に拾われた。その後、粲爾とは兄妹同然に育ってきたが、浩爾が失業して養っていくことができなくなり、芸妓に身を落としていたのである。血のつながりのない兄妹であった二人は、互いに惹かれあっていく。

ところが、田の次に横恋慕していた吉住は、粲爾という恋敵が現れことのねたましさのあまり、兄が粲爾の学校の教師をしているのを幸いとして、粲爾と田の次の関係を大げさに吹き込む。このために学内での粲爾の評判はがた落ちとなり、しまいには暫時休学処分を受ける羽目になる。

一方、小町田の学友、守山友芳は、上野戦争の際に生き別れとなった実の妹、お袖を探していた。守山の羽織を着た友人の倉瀬蓮作が芳原に遊んだところ、相手の花魁・顔鳥が、羽織の紋を見て大いに驚く。

顔鳥はその後、梳?(しんぞう)(女中)のお秀に連れられて守山友芳の父・友定のもとを訪れ、証拠の品を携えて自分がお袖だと名乗り出る。

ところが、そこに友定の旧友である三芳庄右衛門が現れ、真相が明らかとなる。お秀は、かつて庄右衛門の妾だった。お秀は上野戦争の混乱の最中、孤児になっていたお袖と、実の娘のお新とを取り違えてしまった。お秀は、お袖の持っていた巾着袋を盗んで、お袖を置き去りにしてしまう。その後、「角海老」の女中として雇われたお秀は、そこで芸妓・顔鳥となっていたお新と再会し、守山家がお袖を探しているのをいいことに、実の娘である顔鳥をお袖に仕立て上げようとしたのである。そして、田の次ことお芳こそが他ならぬお袖であることが判明し、物語は大団円を迎える。結末で作者は、後日談となる『続当世書生気質』の執筆を予告しているが、実際には執筆されなかった。
登場人物
小町田粲爾とその周辺人物
小町田 粲爾(こまちだ さんじ)
ある私塾の書生。21-22歳くらい。真面目で神経質な性格。飛鳥山で、芸妓になっていた幼馴染で義妹のお芳こと田の次に偶然に再会する。その後逢瀬を重ねるが、二人の関係を知らない周囲からは、芸妓に溺れているものと誤解され、次第に追い詰められていく。第11回で品行不良として休学処分となるが、のちに復学。立場上は主人公だが、特に活躍らしい活躍を見せず、結末でもほとんど傍観者にとどまっている。そのため発表当初、逍遥の友人であった
高田早苗は、サッカレーの『虚栄の市』(副題「主人公のいない小説」)を引き合いに出して、本作を「主人公なきの小説」と評した[11]


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