弾丸列車
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この項目では、日本の鉄道計画について説明しています。一般の弾丸列車については「高速鉄道」をご覧ください。

弾丸列車(だんがんれっしゃ、彈丸列車)は、日本1939年(昭和14年)に始まった、通称「弾丸列車計画」で計画されていた列車である。この計画は戦後の新幹線へと繋がっている。
計画の背景

1932年(昭和7年)ごろ、日本から朝鮮半島中国大陸へ向かう輸送需要は年々急増していた。前年の1931年(昭和6年)には関東軍満洲事変に遭遇しはじめており、翌1932年(昭和7年)には満洲国も成立したためであった。東京大阪からそれらの地方へ向かう当時の最速ルートは、まず東海道本線山陽本線下関まで行き、関釜連絡船玄界灘を渡って釜山に上陸後、さらに朝鮮総督府鉄道(鮮鉄)・南満洲鉄道(満鉄)を利用するというルートであった(→国際連絡運輸も参照)。ところが、その当時すでに東海道本線と山陽本線は重要幹線であるが故に輸送力が逼迫した状態であった。例えば、東海道本線と山陽本線の総延長は当時の国鉄線(省線)の7%に過ぎなかったものの、輸送量は全体の30%を占めていた。特に1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件が起こり日中戦争が勃発すると、そのままでは輸送量の増加に対処しきれなくなると危惧されるようになった。
立案から具体化

そこで1938年(昭和13年)12月2日に当時の国有鉄道を運営していた鉄道省内部に「鉄道幹線調査分科会」が設立され、両幹線の輸送力強化に関する調査研究が開始された。さらに翌1939年(昭和14年)7月12日には「鉄道幹線調査会」が勅令をもって設立され、輸送力拡大のための方策が具体的に検討されるようになり、11月に結論として早期に同区間に別線の高規格鉄道を敷くことが必要であるということになった。鉄道省の用語では、広軌による幹線として「広軌幹線」という言葉でこの計画を呼んでいたが、新聞など世間一般では弾丸のように速い列車であるという形容として「弾丸列車」という語が使われた。戦後の新幹線計画への影響は大きいが直接的な繋がりは無いものの、新しい幹線という意味で「新幹線」という語の使用も当時の公式資料中に見られる。

また、関係者には初の本格国産蒸気機関車である8620形9600形を開発した関西鉄道出身の鉄道技術者島安次郎[† 1]や、その息子で戦後東海道新幹線計画を推し進めることになった島秀雄もいた。島安次郎は、かつて国鉄の標準軌化を目論んで計画を立てていたが、立憲政友会原敬が横槍を入れて実現せぬまま終わったという経緯があり、独自に標準軌新線を敷くというこの案に乗ったのである。

当初は他の路線と直通できることから狭軌(1067mm)新線を敷く案が有力であったが、大陸の鉄道である満鉄や鮮鉄が標準軌(1435mm)を採用していたので、それとの貨客直通を図れる方が軍事輸送の面などからしても有利なこと、広軌を使用すれば高速運転ができるなどの理由で計画変更となった。
建設と挫折

1940年(昭和15年)9月に鉄道省が「東京・下関間新幹線建設基準」を制定し、同年に帝国議会で「広軌幹線鉄道計画」が承認され、国家が1954年(昭和29年)までに開通させることを目標とした「十五ヶ年計画」に基いて総予算5億5600万円をかけて建設を行うことが決定した。これに基き用地買収・工事が開始されることとなる。

なお構想として、将来は対馬海峡海底トンネルを掘削し、満洲国の首都新京(現:長春)や中華民国北京までの直通列車を走らせるというものもあった(日韓トンネルの項目も参照)。太平洋戦争によって日本軍シンガポール(昭南)を獲得すると、そこまでの延長も画策されたという。「大東亜共栄圏」構想に基いて日本が東アジア東南アジアでの覇権を確立し、日本を中心として東アジア・東南アジアの植民地を解放した新しい体制を創ろうとしたことからこれらの計画は生まれたといわれ、他にもインドラオス等への鉄道敷設が構想としては存在し、シベリア鉄道に代わるアジアからヨーロッパまでの鉄道敷設を目指した「中央アジア横断鉄道計画」(新規建設区間は包頭西安 - 甘州(現、張掖) - 哈密 - カシュガル - カーブル - テヘラン - バグダード、他の区間は既設線活用)なるものも立案された。大東亜縦貫鉄道も参照のこと。

しかしながら同戦争の戦局が悪化したため、1943年(昭和18年)度をもって工事は中断されてしまった。だが日本坂トンネルについては工事が継続され、完成後は東海道本線の新トンネルとして転用された(後に東海道新幹線のトンネルとして再転用される)。また、新丹那トンネル東山トンネルの工事は進んでおり、用地買収も東海道区間については戦時体制による半ば強制的な形で多くが完了していたため、戦後の東海道新幹線建設計画においてそれらは活用されることになる。

なお終戦直後の1946年(昭和21年)6月には、外資を取り入れた民間主導でこの計画を実現させようという計画もあがった。「日本鉄道株式会社」(仮称。東北本線などを敷設した明治時代の日本鉄道とは無関係)として立案されたこの計画は、東京から福岡の間に標準軌の新線を敷設し、寝台列車貨物列車などは機関車牽引、その他の列車は電車列車で運行、東京 - 大阪間を4時間、東京 - 福岡間を10時間で結ぶことを目標とした。しかし、日本の主要幹線は鉄道国有法により国家が運営することが定められていたことと、国の復興予算と資材は国鉄に優先的に投与することになっていたため、認可には至らなかった。また岡山県では、弾丸列車の計画ルートを生かす形で笠岡市から岡山市を通って兵庫県赤穂市までを結ぶ「岡山急行電気鉄道」の計画が立案されたことがあった[1]が、並行路線である国鉄赤穂線の建設工事が当時既に始まっていたこともあって実現には至らなかった[2][3]

新丹那トンネル開削のため、作業員宿舎が置かれた場所である静岡県田方郡函南町には、戦中よりこの弾丸列車計画にちなんで、「新幹線」という地名が今に至るまで存在している。
計画の概要

東京 - 下関間984.4kmに、
在来線とは別の複線新線を敷設する(計画立案当時の同区間在来線営業キロは1097.1km)。

現在線と必ずしも並行せず、できるだけ直線ルートを取る。

長距離高速列車を集中運転する。

旅客列車は東京 - 大阪間を4時間30分、東京 - 下関間を9時間で結ぶことを目標とした[4](当時、東京 - 大阪は最速列車で8時間、東京 - 下関間は18時間半を要した)。

当初、東京 - 大阪間には片道42本、大阪 - 下関間に31本の旅客列車を設定する予定であった(戦後の新幹線開業当初は東京 - 新大阪間に30本、翌年には51本。また当時の東京 - 大阪間直通定期旅客列車は24本、大阪 - 下関間は18本)。

貨物列車は東京 - 大阪間12本、大阪 - 下関間10本の設定を予定した。


最高速度は200km/hとする(蒸気機関車牽引区間では150km/h。なお戦後の新幹線は210km/h、当時の在来線最高は95km/h)。

旅客駅数は18に限る。

旅客駅は、東京、横浜、小田原、熱海、沼津、静岡、浜松、豊橋、名古屋、京都、大阪、神戸、姫路、岡山、尾道、広島、徳山、小郡、下関[4]

また貨物列車の操車場として、新鶴見、浜松、名古屋、吹田、岡山、広島、幡生[4]

ただし尾道に代わって福山に駅を設置する案や、沼津に代わって三島に駅を設置する案もあった。また、最速列車の停車駅は東京、横浜、静岡、名古屋、京都、大阪、神戸、姫路、岡山、広島、下関の11箇所とし、将来的には東京、名古屋、大阪、広島、下関の5駅のみ停車する速達列車を運転する構想もあった。


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