強訴
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強訴(ごうそ)とは強硬な態度で相手に訴えかける行動を指す。「嗷訴」とも。

特に日本の平安時代中期以後、寺社勢力が仏神の権威と武力を背景に、集団で朝廷幕府に対して行なった訴えや要求、江戸時代に農民が領主に対して年貢減免などを要求したことを指す[1]
寺社勢力による強訴

寺社勢力は朝廷や幕府に自らの要求を飲ませるため、武装した衆徒僧兵など)や神人を集団で向かわせる実力行使を度々行っていた。

自分たちの寺社に関わる何らかの問題が発生した場合、僧兵たちは裹頭(かとう)と呼ばれる覆面をつけ、声色を変えた上で提起を行い、賛成のものは「尤も尤も」、反対のものは「謂われなし」と声を上げ、ひとたび決した議決には異論を差し挟まず即座に行動に出た[2]

特に「南都北嶺」と並び称された奈良興福寺比叡山延暦寺は強訴の常連で、興福寺は春日大社神木春日神木)、延暦寺は日吉大社神輿などの「神威」をかざして洛中内裏に押し掛けて要求を行い、それが通らない時は、神木・神輿を御所の門前に放置し、政治機能を実質上停止させるなどの手段に出た。神木を使う前者を「榊振り」、神輿を使う後者を「神輿振り」とも呼び[3]、神輿振りは1095年の強訴が最初とされる[4]

平家物語』の巻一には、白河法皇が「賀茂川の水、双六、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話(天下三不如意)があり、延暦寺の山法師(僧兵)による強訴は、氾濫を繰り返す鴨川(自然)やサイコロの目(確率)と同じく、天皇ですら制御できないものとして嘆いたものである。

興福寺の榊振りの場合は、まず訴訟の宣言として、神木を本殿から移殿へ移し(御遷座)、訴えが聞き入れられれば本殿へ戻し(御帰座)、聞き入れられなければ興福寺前の金堂に移し、それでもまだ聞き入れられない場合は神木を先頭にして京に向かって大行進を始め、木津で一旦駐留し(御進発)、それでもまだ聞き入れられないなら宇治平等院まで北上し、それでもだめな場合にいよいよ入洛する、という手順だった[5]

また、伊勢神宮でも禰宜以下の神人が祭主などを無視して直接京都に訴え出ることが10世紀以降しばしば行われ、鎌倉時代には「神宮大訴」と呼ばれていたが、これも強訴・越訴の一種である[6]

強訴の理由は寺社の荘園国司が侵害したり、競合する寺社が今までより優遇措置を得ることなどである。朝廷は強訴を押さえるため、武士の武力を重用した。これは、新興勢力の武士が、仏罰や神威を恐れなかったためである。これにより、武士が中央政界での発言権を徐々に持つようになる。これ以降の日本では朝廷、武家、寺社勢力が権力を三分することになる。

寺社の強訴は平安時代から室町時代ごろまで盛んだったが、その後寺社権門の衰退と共に廃れていった。一方で武士にも仏教が浸透し、複雑な関係となった。
年表

和暦西暦月日
旧暦)寺社内容出典
安和968年7月15日興福寺寺田を巡る東大寺との抗争大宮文書
天元4981年12月15日延暦寺円仁派による法性寺座主・余慶円珍派)の罷免要求扶桑略記
寛和2986年2月26日興福寺備前国鹿田荘における備前守・藤原理兼の濫行を訴える日本紀略
7月13日興福寺大和守・源頼親の罪科を問う一代要記
寛弘1004年2月26日摂津住吉社神人を負傷させた摂津守・藤原説孝を訴える御堂関白記
3月24日宇佐八幡宮大宰権帥・平惟仲の非法を訴える。6月8日、惟仲の執務停止日本紀略
寛弘31006年7月13日興福寺藤原道長に国内の田畑損亡を愁訴日本紀略
寛仁1017年6月22日興福寺神木を奉じて入洛(理由不明)大宮文書
万寿41027年4月26日延暦寺法成寺の尼戒壇設立に抗議小右記
長元1028年10月13日金峰山大和守・藤原保昌の苛政を訴える左経記
長暦31039年2月18日延暦寺藤原頼通明尊(寺門派)の天台座主補任を抗議。3月16日、僧徒が頼通の高陽院邸に放火扶桑略記


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