強制移住
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強制移住(きょうせいいじゅう)とは、住民がその居住地から強制的に移動させられること。
概説「en:Population transfer」も参照

人類学者の綾部恒雄は、移民と異なり、強制移住によって異郷へ送られ少数民族になったケースとして、英仏戦争の結果、カナダからルイジアナへ移住したフランス系ケージアン、第二次大戦中の日本統治下の朝鮮人[注釈 1]樺太カザフ共和国における朝鮮人、対独協力をしたとしてウズベク共和国へ強制移住させられたメスヘティア・トルコ人やコーカサス・ボルガ河流域から強制移住させられたイスラム教徒などをあげている[2][3]

国連の国際機関である国際移住機関(IOM)では、戦争や迫害など政治的な理由により住民が強制的に故郷から立ち退かされるケースの他にも、天災や環境の変化により住民が移住を余儀なくされるケースをforced migration(強制移住)に分類している[4]

戦争や紛争の結果や、時の権力者から本来の居住地から強制的に住民が連れ去られる事例も歴史上多数ある。日本では奈良時代から東北・蝦夷地を対象とした移配俘囚の制度があったことが知られている。

他にも、アメリカ合衆国政府による原住民(インディアン)の強制移住や、第二次世界大戦当時の日系人の強制収容[5]などの事例がある。

1949年のジュネーブ条約の第4条約では占領権力が住民について当該地域から外地域への強制移送又は追放という形での強制移住をしてはならないと規定されている。例外として、住民の安全又は軍事上の理由のため必要とされる時かつ物的理由のためやむを得ない場合は住民の他地域への強制移住が認められているが、当該地区における敵対行為が終了した後は速やかに各自の家庭に送還されることが義務付けられている。
政治的理由による移住
大西洋奴隷貿易(黒人奴隷)

大西洋奴隷貿易は、15世紀にポルトガル人によって始められた[6]。主に西アフリカの部族や奴隷商人などに捕らえられた人々がヨーロッパ人に売られ、1000万人前後がや南北アメリカ大陸に奴隷として送られた[7]。ポルトガルは4世紀半の間に450万人の奴隷をアフリカから運び、イギリスは18世紀中だけでも250万人の奴隷移送に関わった[8]
南米における黒人奴隷

アフリカからブラジルに送られた奴隷は全体の4割に達し(カリブ海地域向けも、ほぼ同じ割合)、北米に送られた5%に比べ遥かに多い[9]。スペイン王室は、スペイン領との奴隷貿易に関して独占的請負制を導入した。その担い手はポルトガルに始まり、最終的にイギリスに移った[10]:27。
カリブ海における黒人奴隷

カリブ海地域の国々では1492年のコロンブスらの到来以降、西欧列強の本格的な海外植民地として、アフリカなどから連れて来られた奴隷を使ったプランテーション経営が行われた[11]。カリブ地域は他のラテンアメリカ地域とは異なり、原住民インディオ文化はほぼ完全に絶滅させられたか局所的に残るだけとなり、奴隷として連れて行かれた西・中央アフリカの黒人の子孫が社会の大多数を占め、アフリカ黒人系文化が重要な位置を占めるに至った[12]
北米における黒人奴隷

北米のイギリス植民地では18世紀初頭までに奴隷法典が整備され、奴隷制度が広がった[13]:21。イギリスは、王立アフリカ会社に植民地への奴隷貿易を独占させたが、やがてイギリス国旗を掲げる全ての船に権利を開放した[10]:27。独立したアメリカ合衆国で公式に奴隷制度が廃止されたのは1865年である(アメリカ合衆国憲法修正第13条)。
ケイジャン詳細は「ケイジャン」を参照

英仏戦争の結果、フランス系カナダ人ケイジャンが、カナダからルイジアナへ移住した[2][3]
アメリカ原住民の強制移住詳細は「インディアン移住」および「涙の道」を参照

アメリカ合衆国政府は、1830年にインディアン移住法を制定し、抵抗の意思を放棄した原住民(インディアン)をその本拠地からミシシッピ川以西へと移住させた。この困難な旅路の中で大勢の原住民が命を落とした。チェロキー族のケース(1838年-1839年)では、1万5, 6千人のうち3-4千人が旅の途中で死亡したと言われる[14]。世に言う「涙の道」である。

1860年代には、アメリカ陸軍の発案により、ナバホ族が彼らの本拠地から数百マイル離れた土地に徒歩で移住させられた[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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