この項目では、古代中国武将の張飛について説明しています。プロボクサーの張飛については「張飛 (ボクサー)」をご覧ください。
張飛
清代の書物に描かれた張飛
蜀漢
仮節・車騎将軍・司隷校尉・西郷侯
出生生年不詳
幽州?郡
死去章武元年(221年)6月
益州巴西郡?中県
?音Zh?ng F?i
字益徳
諡号桓侯
主君劉備
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張 飛
各種表記
繁体字:張 飛
簡体字:? ?
?音:Zh?ng F?i
注音符号:?? ??
ラテン字:Chang1 Fei1
発音:ヂャン・フェイ
日本語読み:ちょう ひ
英文:Zhang Fei
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張 飛(ちょう ひ、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Zh?ng F?i、生年不詳 - 章武元年(221年)6月[1])は、中国後漢末期から三国時代の蜀の将軍・政治家。字は益徳[注釈 1]。幽州?郡の人。『三国志』蜀志[2]に伝がある。封号は新亭侯、のち西郷侯。諡は桓侯。子は張苞・張紹・敬哀皇后張氏・張皇后。孫は張遵。
後漢末の群雄の一人である劉備の挙兵に当初から付き従った人物で、その人並み外れた勇猛さは下述の通り中原に轟いた。その武勇は後世にも称えられ、小説『三国志演義』を始めとした創作作品でも多くの脚色を加えて取り上げられており、現在でも中国や日本を中心にその人柄を大いに親しまれている。 張飛は、同郡に住む劉備が黄巾の乱に臨んで義勇兵を集めようとした時、他所から流れてきた関羽と共にその徒党に加わり、腹心の配下となった[3]。以後は関羽と共に劉備から兄弟のような親愛の情を受けることとなり、大勢の前では劉備を主君として立て、命がけで護衛の任務を務めたという[3]。また、関羽の方が数歳年長であったため、関羽を兄のように敬愛して仕えていた。やがて劉備が公孫?に採り立てられて平原相となると、関羽と共に別部司馬に任じられ、それぞれが一軍の指揮を執る将となった[3]。 興平元年(194年)、劉備は身を寄せていた徐州で、徐州牧の陶謙に位を譲られて徐州牧となった[1]。建安元年(196年)、劉備が徐州に侵攻した袁術と戦っている最中、張飛は本拠地である下?の留守を任されていたが、そこで下?相曹豹と対立した[4]。劉備と袁術が1か月睨みあっている隙に、劉備に身を寄せていた呂布が、下?を攻撃した。曹豹が寝返り呂布に呼応したため、張飛は敗北し、劉備の妻子を捕虜にされてしまった。劉備と呂布は一旦は和睦したが再び仲違いを起こし、劉備は曹操の元に身を寄せた。張飛は曹操の呂布討伐に劉備と共に従軍し、その戦いでの功績を認められ、許に戻ったときに曹操から中郎将に任命された。 その後、劉備が曹操に背き、袁紹・劉表に相次いで身を寄せると、それにも付き従って、各地で転戦した。 建安5年(200年)、薪を伐採していた夏侯覇の14歳(または13歳)の従妹を、張飛は捕えて妻とした。後に女児を産んだ[5]。
生涯
劉備に従う