桓公 張重華
前涼
第5代君主
王朝前涼
在位期間346年 - 353年
姓・諱張重華
字泰臨
諡号桓公
廟号闕祖
生年建興18年(330年)[1]
没年建興18年(353年)11月
父文王
母馬太后
后妃裴王后
陵墓顕陵
年号建興:346年 - 353年[2]
張 重華(ちょう ちょうか)は、五胡十六国時代の前涼の第5代君主。字は泰臨。第4代君主張駿の次男。 建興18年(330年)[1]、張駿の次男として生まれる。建興20年(332年)、世子に立てられた。寛大で思いやりがあり、穏やかな人物であった。また、立ち居振る舞いは甚だ立派であり、沈着で毅然としていた。建興27年(339年)11月、張駿の命により、州の事務の一部を執り行うようになった。建興33年(345年)12月に涼州刺史に任じられた。 建興34年(346年)5月、張駿は病に罹り、やがてこの世を去った。6月、群臣は張重華に後を継がせ、使持節・大都督・大将軍・太尉・護羌校尉・涼州牧・西平公・仮涼王を称させた。張重華は領内に大赦を下し、永楽と改元した[3]。張駿を文公と諡し、嫡母(父の正妻)の厳氏を尊んで太王太后に立てて永訓宮に住まわせ、実母の馬氏を王太后に立てて永寿宮に住まわせた。さらに後趙君主石虎に使者を派遣して表を奉じ、従属する姿勢を示した。7月、張駿を大陵において葬った。
生涯
父の時代
後を継ぐ
後趙襲来・胡宣
建興35年(347年)4月、再び後趙が攻勢に出ると、張重華は再び謝艾に3万の兵を与えて進軍させ、謝艾が杜勲・汲魚の2将を討ち取って1万3千の兵を捕らえる大勝を挙げると、張重華は謝艾を太府左長史に昇進させ、福禄県伯に進封させた。また、五千戸を加増して、帛八千匹を下賜した。5月、麻秋・石寧らが再び襲来し、12万の軍勢で河南へ駐屯した。張重華は将軍牛旋に迎撃を命じたが、牛旋は枹罕まで退いて交戦しようとしなかったので、姑臧の民は大いに動揺した。張重華は自ら出征して迎撃しようとしたが、謝艾・索遐らに諫められてこれを思い留まり、謝艾を使持節・都督征討諸軍事・行衛将軍に、索遐を軍正将軍に任じ、2万の軍勢を与えて敵軍を防がせた。謝艾らは出撃すると敵軍の侵攻を阻み、その間に別将の楊康が沙阜において劉寧を撃破し、金城まで退却させた。 10月、東晋の侍御史兪帰
涼王を望む
これに対し兪帰は「春秋時代、呉・楚などは周王を差し置いて王号を僭称するようになった。諸侯はこれを非としなかったが、これは彼らを夷蛮の者に過ぎないと見做していたからである。主上は公(張重華)の忠賢をもって公の爵位を下賜し、方伯の任を与えたのである。今、公は位を継いで間もないのに、早くも王になろうとしている。公が現地の民衆を従えて東の胡・羯を平らげ、陵廟を修復し、洛陽に天子を迎え入れたならば、どのような爵位をもってこれに加えれば良いのか」と反論した。張重華はこの話を聞き、遂に王号を諦めた。 建興36年(348年)、張重華は強敵を立て続けに破ったことから、次第に政務を怠るようになり、賓客に接することも少なくなった。司直索遐はこれを諌めて再び政務に励むよう上奏したが、張重華はこれを聞いて答謝したものの、結局その態度が改まることはなかった。張重華はしばしば左右の寵臣に金銭を下賜し、また賭博や遊戯に興じたため、政治は荒廃するようになった。徴事の索振 建興40年(352年)11月[5]、後趙の西中郎将王擢は隴上に屯していたが、前秦の丞相苻雄に敗れたので、衆を率いて前涼に亡命してきた。張重華は彼をよく厚遇し、征虜将軍・秦州刺史に任じて仮節を与えた。 建興41年(353年)2月[6]、張弘・宋脩に歩騎1万5千を与えて王擢に合流させ、共に前秦を討伐させた。苻雄・衛大将軍苻菁が龍黎においてこれを迎え撃ち、前涼軍は大敗を喫して1万2千を失い、張弘・宋脩は捕らえられて長安へ送られた。王擢は秦州を放棄して姑臧に撤退した。張重華はこの敗戦を悼み、戦没者の為に喪服を着て哀哭し、さらに使者を派遣して弔問を行った。5月、張重華はまた王擢に2万の兵を与え、前秦領の上?へ侵攻させた。秦州の郡県は多くが王擢に呼応し、王擢は苻願を撃破して長安まで撤退させた。 その後、張重華は東晋へ使者を派遣して戦勝報告をすると共に、上疎して「季龍(石虎の字)が自斃してその余衆は亡霊となってさまよい、国を奪い合って滅亡の憂き目に遭っており、この機を逃さず兵を発するべきです。
政務を怠る
前秦との戦い