北魏から西魏の同名人物については「張軌 (西魏)」をご覧ください。
武公 張軌
前涼
初代君主
王朝前涼
在位期間301年 - 314年
都城姑臧
姓・諱張軌
字士彦
諡号武公
廟号太祖
生年正元2年(255年)
没年建興2年(314年)
父張温
張 軌(ちょう き)は、五胡十六国時代の前涼の建国者。字は士彦。安定郡烏氏県(現在の甘粛省平涼市川県)の人。祖父は外黄県令張烈。父は太官令張温。母は隴西郡の名族である辛氏。 若い頃は宜陽の女几山に籠り、同郷で親交のあった皇甫謐と共に隠居生活をしていた。泰始元年(265年)、恩蔭制度(任子)により叔父の五品官(九品官人法による官品)を承継した。やがて洛陽へ入朝し、衛将軍楊?に召し出されて属官となり、次いで太子舎人に任じられた。太康年間(280年 - 289年)には尚書郎・太子洗馬・中庶子に任じられ、さらに幾度か昇進して散騎常侍・征西軍司[1] まで至った。 八王の乱により朝廷内で政変が相次ぐようになると、張軌は災いを避ける為、かつて後漢の建国の功臣である竇融が河西(涼州)の地へ逃れてその身を保った故事に倣い、朝廷へ上表して涼州刺史の地位を求め、これが認められて現地へと赴任した。当時、涼州の境では鮮卑が反乱を起こしており、強盗・略奪行為が横行していた。張軌は着任すると瞬く間にこれらの鎮圧に当たり、1万人余りを討伐した。 永興元年(304年)頃、河間王司馬?・成都王司馬穎の専横により朝廷が乱れると、張軌は3千の兵を洛陽へ派遣して恵帝の護衛に当たらせた。後に隴西郡太守の韓稚
生涯
若き日
河西に拠る
光熙元年(306年)11月、恵帝が崩御して懐帝が即位した。永嘉元年(307年)頃、張軌は関中を鎮守していた南陽王司馬模のもとに主簿令狐亜を派遣し、礼物を贈って修好を求めた。司馬模はこれを大いに喜び、帝から賜った剣を張軌へ贈ると「隴より以西(隴西地方)においては、征伐・採決の一切を委ねよう。それはこの剣と同様である」と告げた。 晋昌郡出身の張越
張越の乱
永嘉2年(308年)2月、張軌は中風を患い、日常の会話に支障を来すようになったので、子の張茂が州の事務を代行するようになった。張越は兄の酒泉郡太守張鎮・尚書侍郎曹?[2]、張軌の別駕を務めていた麹晁らと協力し、これに乗じて張軌を失脚させようと計画した。関中を統治する南陽王司馬模の下へ使者を派遣し、張軌が不治の病であると称し、秦州刺史の賈龕を後任として涼州刺史に転任させるよう訴えた。当の賈龕は当初はこの企みに乗ろうと考えていたが、彼の兄は「張涼州(張軌)は当代きっての名士であり、威名は西州(涼州)に轟いている。汝は何の徳があってこれに取って代わるというのか!」と叱責したので、考えを改めてその地位を辞退した。賈龕の辞退を受け、張鎮・曹?は朝廷へ代わりの涼州刺史を派遣するよう上表した。さらにその返答が届く前に、張越は張鎮・曹?・麹佩らを各地へ派遣して張軌を廃する旨の檄文を送り、さらに朝廷に上表して自身を涼州刺史に任じるよう要請した。
これらの事が耳に入ると、張軌は職を辞して早急に隠遁しようとした。しかし長史王融・参軍孟暢らは張軌の居室へ押し入り「晋室で変事が相次ぎ、人も神霊も塗炭の苦しみを味わっており、みな明公(張軌)が西夏(中国の西側)を撫寧することを頼みとしております。張越・張鎮の兄弟は凶逆をほしいままにしており、その罪を明らかにして誅滅すべきです。彼らの志を成就させてはなりません!」と諫めた。これを聞いた張軌は長男の張寔を張鎮らの討伐に当たらせると共に、同時に張鎮の外甥である太府主簿の令狐亜を張鎮の下へ派遣し、誠心誠意の帰順のみが一族の安泰の道であると説得させた。これを聞いた張鎮はその罪を功曹の魯連に押し付けて処刑すると、張寔の下へ赴いて謝罪した。張越・曹?は未だに張軌に従わなかったので、張寔は軍を率いてこれを討伐した。
同時期、朝廷は張鎮らの上表を受け取ると、侍中袁瑜を代わりの涼州刺史に任じる事とした。これを聞いた治中の楊澹[3] は馬を馳せて数10人を伴って長安へ至り、自分の耳を切り落として皿の上に置き、張軌が不当に貶められていると司馬模へ訴えた。また武威郡太守の張?もまた子の張坦を速やかに洛陽を派遣し、上表して張軌の更迭を思いとどまるよう請願した。司馬模はこれらの要請を入れ受け、上表してこの人事を止めさせた。これを知った張軌は大いに喜び、勢いそのままに討伐軍を派遣して曹?を討ち取り、張越を?へ逃走させた。これにより涼州の騒乱は鎮まった。 永嘉2年(308年)4月、趙・魏の地で反乱を起こしていた王弥が洛陽へ侵攻を開始すると、張軌は督護北宮純・張纂・馬魴
洛陽を護衛