この項目では、政治家・実業家について説明しています。海洋調査船については「張謇 (海洋調査船)」をご覧ください。
張謇
プロフィール
出生:1853年7月1日(清咸豊3年5月25日)
死去:1926年(民国15年)8月24日
中華民国江蘇省南通県
出身地: 清江蘇省海門直隷庁常楽鎮
職業:政治家・実業家
各種表記
繁体字:張謇
簡体字:?謇
?音:Zh?ng Ji?n
ラテン字:Chang Chien
注音二式
張 謇(ちょう けん)は、清末民初の政治家・実業家・教育家。字は季直、号は嗇庵。 1853年、江蘇省海門直隷庁常楽鎮(現在の南通市海門区常楽鎮)に生まれた[1][2]。1894年、42歳で科挙制度最上位の状元となり翰林院修撰となった[3]。1909年、江蘇諮議局[注釈 1]議長に推薦される。1912年に宣統帝の退位詔書を起草し、中華民国臨時政府の実業総長となった。翌年に北京政府の工商総長と農林総長を兼任し、1914年には全国水利局総裁となった。 張謇は中国近代化の先駆者とされ、張之洞に請われ実業家としての道に入り、中国で盛宣懐とともに紡績工場を建設、劉坤一が両江総督になってからも援助を受けた。政治的には立憲派の統一党に属し中国国民党と対立した。さらに教育の分野でも活動し、中国で最初の近代的な師範学校である南通師範学校[注釈 2]や、中国最初の民間博物館である南通博物苑を創設している。それ以外にも三江優級師範学堂や南京高等師範学校(現在の南京大学)の創設にも関わった。 1903年4月25日から6月6日までの約2カ月半[注釈 3]日本を訪問。長崎から北海道まで、学校・会社・博物館・博覧会などを視察している[6]。とくに学校については、幼稚園から大学、各種実業学校、師範学校、専門学校など20箇所以上を訪問している。また、儒学者藤沢南岳、朝日新聞記者西村天囚、同内藤湖南、朝日新聞社主村山龍平、朝日新聞社長上野理一、三十四銀行頭取小山健三、大阪商工会議所会頭土居通夫、東京高等師範学校校長嘉納治五郎、東亜同文会会員岸田吟香らと交わっている[7]。 壬午軍乱に際して、呉長慶は「遼東三省と左提右挈し、実に東方の一大塀障」と述べ、清の東三省と朝鮮半島で守りを固めれば怖いものなし、と考えており[8]、清の伝統的な属国であったベトナムはフランスに横取されたが、残る伝統的属国の李氏朝鮮は、もう誰にも渡すわけにはいかず、李氏朝鮮に介入している日本やロシアに対抗するために、指導と管理を強化し、新疆や台湾のように、中国の正式な領土にするため「朝鮮省
概要
田保橋潔による大要は以下である[8]。
漢四郡建置の例に従ひ、朝鮮国王を廃し、其地を清の一省とする。
朝鮮国王を存置するとしても、周の例に従ひ、監国を置く。
有力なる軍隊を派遣して、其海港を清の監理の下に置く。
朝鮮の内政革新を断行する。
張謇は『朝鮮善後六策』において、朝鮮は漢の時代は中国の植民地(漢四郡)であったから、李氏朝鮮王を廃止して監国にして属藩とし、清の東三省に朝鮮省を含めて「東四省」にすることで李氏朝鮮を併合し、「内政の自己改革と新軍の訓練を、我が東三省とつらねて、一気と為す」と主張しているが、黄文雄によると、朝鮮人は属国であることにマヒしており、「朝鮮省」設置を「小中華」から「大中華」へ昇格したと恩恵と謝恩を感じており、特に中国人になりたくてもなれなかった両班にとっては願ってもない恩寵と感じていた[11]。また黄文雄によると、張謇が『朝鮮善後六策』において提案した、清の東三省に朝鮮省を含めて「東四省」にして、清が李氏朝鮮国王を廃止して監国にするという政策は、清以前にもあり、朱元璋は李氏朝鮮を建国した李成桂に国王の地位を下賜しなかったのもその一例であり、中国人からすれば、朝鮮は漢の時代から中国の一部であり、中国の歴代王朝の封国は、呉楚七国の乱の呉(劉?)や楚(劉戊)が知られるが、朝鮮はそれよりもさらに一段下の外様大名としか見られておらず、そもそも中国人からすれば朝鮮をつくったのは中国人の箕子であると考えており、張謇の『朝鮮善後六策』のような考え方は、中国人の一般的な伝統的朝鮮属国観であり、それは現代でも変わっておらず、?介石はカイロ会談で、ルーズベルト大統領に高麗の返還を要求しており、ルーズベルト大統領は、この要求を拒んでいるが、?介石の「高麗返還要求」はまさにそのような現代中国人の一般的な伝統的朝鮮属国観を如実に示している[11]。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 1909年から1912年まで江蘇省に置かれた。諮議局は清末の立憲準備に伴って各省に開設された過渡期の地方議会。(以下略)[4]
^ 1902年、江蘇省通州(現在の南通市)に通州民立師範学校として設立された[5]。