張華
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張 華(ちょう か、太和6年(232年) - 永康元年4月3日300年5月7日))は、三国時代から西晋にかけての政治家・文人。は茂先。范陽郡方城県(現在の河北省廊坊市固安県)の人。父は漁陽太守張平。妻は劉放の娘。『晋書』に伝がある。

西晋を代表する名臣であり、成立直後の統一前の時代において、羊?杜預らと共に対呉の主戦論を主張した。統一後の武帝の代においては中央より遠ざけられたものの、恵帝の代になると朝廷に戻り、皇后の賈南風に与して、その同盟者であった司馬?の切り捨てを主導した。賈南風が実権を握ると宰相を務め、八王の乱で疲弊する国家を支えた。
生涯
魏の時代

幼い頃に孤児となったため生活に困窮し、羊飼いとなって生計を立てていた。やがて范陽太守鮮于嗣から推挙され、太常博士に任じられた[1]。同郷の名士である盧欽もまた、朝廷の権力者であった司馬昭に対して張華を推挙し、これにより河南尹丞に転じるよう命じられたが、拝命しないうちに佐著作郎(歴史編纂が任務である著作郎の補佐をする役職)に任じられた。しばらくして長史に移り、中書郎(宮中の事案に関与)を兼任した。朝議において彼の表奏は数多く採用された為、やがて中書郎が本職となった。
武帝の時代
晋朝廷に仕える

泰始元年(265年)、西晋が禅譲により興ると、黄門侍郎に任じられ、関内侯に封じられた。武帝司馬炎からもその見識の高さを評価され、やがて中書侍郎に任じられた。数年して中書令に任じられ、さらに後に散騎常侍を加えられた。その後、母が死去したため喪に服すると、当時の儀礼的なものの範囲を超えて激しく悲嘆した。武帝も詔を下して張華を激励し、再び政務に就くよう促した。やがて中書令として職務に復帰した。
呉征伐に貢献

咸寧2年(276年)10月、荊州を統治する征南大将軍羊?は上表し、今こそ呉征伐の好機であるとして出征を要請した。司馬炎はこれに深く賛同したものの、朝臣はみな当時発生していた秦州涼州の動乱を憂慮してこれに賛同せず、特に重臣である賈充荀勗馮?らが頑強に反対した為、実行に移されることはなかった。その中にあって張華と度支尚書杜預だけは羊?の計略に全面的に賛成し、司馬炎を後押ししていた。

咸寧4年(278年)6月、羊?は病に倒れ、療養の為に任地の荊州を離れて洛陽へ帰還した。司馬炎は張華を病床の羊?の下へ派遣し、呉征伐の作戦について諮問させた。張華は羊?と呉征伐の方針について語らい合い、話の中で羊?が「(呉の現君主である)孫晧の暴虐は甚しく、彼の治世である今ならば呉は戦わずして滅ぼす事ができるはずである。だが孫晧が死に新たに優れた君主が現れてしまえば、百万の兵がいようとも呉を滅ぼす事は叶わないであろう」と話すと、張華はこれに深く同意した。これに羊?は「私の志を成し遂げる事ができるのはあなたしかいない」と述べたという。

咸寧5年(279年)冬、羊?の後任となった都督荊州諸軍事杜預は上表し、呉の征伐を固く請うた。上書が届いた時、司馬炎と張華は囲碁を打っていたが、張華は囲碁盤を下げると、拱手して「陛下は聖明にして神武であり、朝野(朝廷と民間)は共に清晏(清く安らか)であります。また国は富み兵は精強であり、号令は一つとなっております。対して呉主(孫晧)は荒淫・驕虐であり、賢能なる臣を誅殺しております。今これを征伐すれば、労せずして定める事が出来ましょう。どうかこれを疑う事のありませんよう!」と訴えた。これにより司馬炎は遂に決心し、賈充らの反対意見を退けて征伐決行を宣言した。張華は物資の運送と軍全体の方針立案を委ねられ、呉征伐を後方から支える事となった。

同年11月、20万余の晋の軍勢が6方向より呉への侵攻を開始した。朝廷の重臣らはなおも軽々しく侵攻すべきでないと諫めたが、張華は必ずやこれが成功すると確信していたので、あくまでも征伐を推し進めた。呉征伐が果たされないまま数か月が経過すると、かねてから出征に反対していた賈充らは、張華を腰斬に処して天下に謝罪するよう要求した。だが、司馬炎は「此度の作戦は朕の考えによるものである。張華は我と考えを同じくしているに過ぎぬ」と述べ、意見を退けた。荀勗もまた賈充と同様の上書をしたが、司馬炎は聞き入れなかった。太康元年(280年)3月、各方面から進撃した晋軍は建業を陥落させ、呉征伐が完遂された。杜預からの上表により朝廷にもこの事が知れ渡ると、賈充らは自らの過ちを謝罪した。

司馬炎は張華の功績を賞し、詔を下して「尚書・関内侯張華は、かつての太傅羊?と共に大計を創り上げ、遂に軍事を司って諸地方へ(将兵を)配し、計略を算定して勝利を収めるに至った。まことに謀をめぐらせた大勲である」と述べた。功績により広武県侯に進封されて1万戸を加増され、子の一人が亭侯に封じられて千五百戸を与えられ、絹1万匹が下賜された。
幽州を統治

江南の平定以降、張華の名声は当代において大いに高まり、衆人はみな彼に心服した。歴史書の撰定・校訂、儀礼・規則の改定についてはいずれも張華が関与するようになり、数多くの添削・修改が行われた。詔書についても全て張華が草案を作成するようになり、その名声はますます盛んとなり、三公の地位に昇るにふさわしいと議論され、既に宰相としての威望を有していると称された。しかし権臣の中書監荀勗・侍中馮?らは張華の躍進を快く思っておらず、隙あらば張華を朝廷から追い出そうと常に画策していた。

太康3年(282年)1月、司馬炎は張華と引見した際、張華へ「後事を託すに値する者は誰であろうか」と問い掛け、自らの死後に太子司馬衷(恵帝)の補佐を委ねられる人物を尋ねた。これに張華は「明徳にして至親である斉王攸(司馬炎の弟の司馬攸)の他にはおりません」と答えた。だが、司馬炎は司馬攸の存在を快く思っておらず、むしろ司馬衷の皇位継承を脅かす存在としてかねてより警戒していた。荀勗らは張華の発言を司馬炎の意に違うものであるとして大いに非難し、張華を外鎮として中央から遠ざけるよう進言した。これにより張華は都督幽州諸軍事に任じられ、また安北将軍・護烏桓校尉を兼任し、中央の権力争いから脱落して辺境に赴任することになった。

張華は着任すると、旧来より住む民を慰撫しつつ新たに流入してきた民も分け隔てなく招納し、異民族・漢民族問わず大いに慕われる存在となった(幽州は烏桓を始めとする北方異民族が多く住まう地域である)。東夷と称される馬韓や新彌などの諸国は、山や海により隔てれた遥か遠方に位置する地であり、歴代に渡って中華王朝への従属を拒んでいたが、張華の統治以降はいずれも遣使して朝貢するようになった。これにより幽州遠方に割拠する異民族も服従するようになり、国境地帯の憂いは無くなったという。治安が保たれた事で、穀物も連年に渡り安定して収穫出来るようになり、兵馬も養われて州軍は強盛となった。これにより張華の声望は再び振るうようになった。

張華の功績は司馬炎の耳にも入り、彼は再び張華を入朝させたいと考えるようになり、朝廷でも張華を中央に召し返して宰相に取り立て、儀同三司(儀礼の格式を三公と同等とする特権)を与える事が議論された。だが、張華に恨みを持っていた馮?が司馬炎に対し、司馬昭鍾会を重用しすぎた結果、増長した鍾会が反乱を起こした例を挙げ、地方で兵権を握る張華を警戒するよう讒言したので、司馬炎は張華を朝廷に招聘するという話を二度としなくなった。その後一度太常として中央朝廷に復帰したがすぐに罷免され、以降も列侯であった事から定期的に朝見(朝廷に参内して天子に拝謁する事)は出来たものの、司馬炎の時代は無官のまま過ごす事となった。
恵帝の時代
中央へ復帰

太熙元年(290年)4月、司馬炎が崩じて司馬衷(恵帝)が即位すると、8月に張華は太子少傅に任じられ、中央に復帰した。当時、司馬炎の外戚である楊駿が権勢を握っており、張華は王戎・裴楷・和?らと並んで徳望が高かったことから楊駿より警戒され、朝政に関わる事が出来なかった。

元康元年(291年)3月、司馬衷の后であった皇后賈南風らが政変を起こして楊駿一派を誅殺すると、楊駿の娘であった皇太后の楊?を廃立すべきかどうかで議論が起こった。群臣はみな賈南風に阿って廃立に賛成したものの、張華だけはこれに反論して「夫婦の道というものは、父も子に求めることは出来ず、子も父に求めることは出来ません。皇太后は罪を先帝から得た者ではないのに、軽々しく廃してはなりません。の時代に趙太后を廃して孝成后とした故事に倣い、別の宮殿に住まわせて貴位のまま終わらせるべきです」と述べた。しかし張華の意見は聴き入れられず、楊?は廃されて庶人に落とされ、後に賈南風により餓死させられた。

同年6月、賈南風は国政を掌握していた汝南王司馬亮録尚書事衛?を排斥するため、楚王司馬?に密詔を与えて彼らの逮捕を命じた。しかし自身もまた両者に恨みを抱いていた司馬?は、司馬亮・衛?を捕えたのみならず独断で処刑してしまった。これを知った張華は司馬?の誅殺を賈南風に勧め、司馬?が権勢を握る事を危惧していた賈南風もこれに同意した。この時、洛陽は城の内外共に人が入り乱れて混乱を来し、朝臣もみな対処に手惑っていたが、張華は恵帝に進み出て「司馬?は詔を偽って二公(司馬亮・衛?)を殺害しました。将士は突然の命令に混乱したまま従ったに過ぎません。外の軍には解散を命じれば従うでしょう」と進言し、恵帝はこれに従った。これを受けて張華は殿中将軍の王宮を派遣し、外の軍勢に対し「楚王は詔を偽った。その命令を聴いてはならぬ!」と伝えさせると、兵士はみな武器を捨てて逃走し、司馬?の周囲には一人としていなくなった。司馬?は為す術もなく捕縛されて処刑された。張華は兵乱を鎮めた功績により、右光禄大夫・侍中・中書監[2]に任じられ、開府儀同三司の特権(開府とは独自に役所を設けて属官を置く権限。儀同三司とは儀礼の格式を三公と同等とする特権)を与えられたが、開府については固辞した。
朝政を司る

この事件以降、賈南風が賈謐郭彰ら一族と共に天下を専断するようになり、彼らは誰に朝政を委ねるべきか共に謀議した。その中にあって張華は優れた儒者であり、文才を有して策略にも長け、主君を蔑ろにして僭越な行動を取るような懸念もなく、大勢の者から人望を集めており、賈氏とは異姓であるため周囲からの誹りも無いという事で筆頭候補に挙がり、彼を朝臣の中心に据えて政務を委ね、国家の大事においても彼へ諮問しようと考えるようになった。だが、なかなか最終的な決断が出来なかったので、尚書左僕射裴?へこの事を相談すると、裴?はかねてより張華を重んじていたので深く賛同した。こうして、張華は朝政の第一人者となり、同じく朝政を任された裴?・賈模らと協力し、忠を尽くして国政を輔け、その誤りを正していった。


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