張良
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張良
張良像(晩笑堂竹荘画伝)
前漢
留侯
出生不詳
死去高后2年(紀元前186年
子房[1]
諡号文成侯
主君韓王成劉邦
子張不疑、張辟彊
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張 良(ちょう りょう、紀元前186年没)は、末期から前漢初期の軍略家は子房。は文成。劉邦に仕えて多くの作戦を立案し、その覇業を大きく助けた。蕭何韓信と共に漢の三傑とされる。劉邦より留(現在の江蘇省徐州市沛県の南東)に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。子には嗣子の張不疑と少子の張辟彊がいる。
生涯
始皇帝暗殺未遂

史記』留侯世家によると、張良は祖父の張開地昭侯宣恵王襄王相国を務め、父の張平釐王桓恵王の相国を務めるなど、韓の名族の生まれであった[2][3]。父張平が死んでから20年が経った韓王安九年(紀元前230年)、秦の内史騰率いる10万の軍によって韓王安は捕虜となり、韓は滅亡した[4]。この時張良はまだ年若く、官職に就いていなかったというが、張良の生年については紀元前250年以前であったこと以外は定かではない[2][5]。祖国を滅ぼされた張良は秦への復讐を誓い、家童が300人もいる裕福な家であったが弟が死んでも葬式を出さず、全財産を売り払って秦王に仇を報ずる客士を求めた[2]

河南の淮陽で礼を学んだ張良は、さらに東へと旅をして倉海君という人物と出会い、話し合って屈強な力士を借り受けることができた[6]。秦始皇29年(紀元前218年)、始皇帝が第2回巡幸の途中で博浪沙(現在の河南省新郷市原陽県の東)を通ったとき[6]、張良は始皇帝の暗殺を企て、力士に重さ120(約30kg[7])もの鉄槌を始皇帝の乗る馬車目掛けて投げつけさせた。だが鉄槌は副車に当たってしまい、暗殺は失敗に終わった[6]。始皇帝は大いに怒り、天下をくまなく探して賊を捕らえるよう命じた。張良は偽名を使って下?(現在の江蘇省徐州市の東の?州市)に逃れ[6]任侠の徒となった[8]。なお、この下?で身を隠していた頃に、人を殺して逃亡中であった項伯項羽の叔父)を匿まっている[8]
黄石公張良と黄石公頤和園)詳細は「黄石公」を参照

『史記』留侯世家には張良が謎の老人から書を授かった説話がある。下?で逃亡生活を送っていたある日、張良が橋の袂を通りかかると汚い服を着た老人が自分の靴を橋の下に放り投げ、張良に向かって「おい若いの、下りて靴を取ってこい」と言いつけた[9]。張良は頭に来て殴りつけようかと思ったが、相手が老人なので我慢して靴を取って来た。すると今度は足を突き出して「わしにその靴をはかせよ」と言いだした[9]。張良は「すでに拾ってきてやったんだから」と考え、膝を地につけて老人に靴を履かせた[9]。老人は笑って去って行ったが、その後で戻ってきて「若いの、教えられそうだなあ!後5日たっての早朝、わしとここで会え」と言った[9][10]。5日後の朝、日が出てから張良が約束の場所に行くと、既に老人が来ていた。老人は「老人と約束しながら遅れるとは何事だ。立ち去れ」と言い「また5日の後早朝に会おう」と言い残して去った[11]。5日後、張良は鶏鳴の時刻(午前二時前後)に家を出たが、既に老人は来ていた。老人は再び「遅れるとは何事だ。立ち去れ」と叱り「あと5日したらもう一度早く来い」と言い残して去って行った。次の5日後、張良は夜中から約束の場所で待った。しばらくして老人がやって来た。老人は満足気に「こうでなくてはならん」と言って張良に一編の書物を渡し「これを読めば王者の師となれる。10年経ったら興隆し、13年後におまえはわたしに会うだろう。済北の穀城山の麓にある黄石がわしなのだ」と言い残して消え去った[11]。授かった書は太公望の兵法書で、張良は不思議に思いながらもこの書を繰り返し誦読したという[10][11]
劉邦との出会い

その後10年が経った秦二世元年(紀元前209年)7月、農民あがりの陳勝呉広が秦に対して反乱を起こすと、秦の圧政に苦しんでいた人々が次々と乱に呼応した(陳勝・呉広の乱)。張良も若者を100人余り集めて乱に加わろうとしたが[12]、乱の発生から半年後[注釈 1]の二世2年(紀元前208年)12月、反乱の主導者陳勝が部下に殺されてしまった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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