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出典検索?: "張済" 後漢の武将
この項目では、後漢末の董卓配下の武将の張済について説明しています。後漢末の司空の張済については「張済 (司空)」を、その他の用法については「張済」をご覧ください。
張済
後漢
驃騎将軍・平陽侯
出生生年不詳
涼州武威郡祖詞ァ
死去建安元年(196年)
荊州南陽郡穣県
?音Zh?ng Ji
主君董卓→献帝→独立勢力
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張 済(ちょう さい / ちょう せい、? - 196年)は、中国後漢末期の武将。涼州武威郡祖詞ァ(現在の甘粛省武威市靖遠県)の人。妹は張姜子[1]。張?の季父[2]。 董卓配下の家臣。192年正月、牛輔は李?・郭・張済を派遣し中牟で朱儁を破らせ、?州陳留郡・豫州潁川郡の諸県を攻略させて、略奪・殺戮・誘拐を行なわせた。 同年4月、董卓が王允らによって暗殺されると、李?らと共にその復讐に立ち上がり、6月に李?・郭・樊稠・王方・李蒙と共に長安に攻め上って王允を殺害した。さらに献帝を脅して迫り、鎮東将軍となった上で弘農に駐屯した。後に驃騎将軍・平陽侯に遷った。 後に、李?・郭が献帝を巡って長安で覇権争いを始めた際、弘農から兵を率いて長安に入り2人を和睦させ、献帝を弘農に移そうと長安から連れ出した。道中、郭は心変わりし献帝を?に連れ去ろうとしたが、楊奉に撃退された。楊奉・董承らが献帝を洛陽に連れて行こうとしたので、楊奉らと仲違いした張済は李?・郭と共に、楊奉ら官軍を攻撃し撃破した。だが献帝の命令により、李?らは楊奉らと和睦を結んで追撃を中止した。献帝を手放した李?・郭・張済は次第に求心力を失い、勢力が衰退したという。 その後、張済は食料が欠乏したので、荊州北部で略奪を働いたが、穣県を攻撃した時に戦死した。彼の死後は、甥が後を継いだ。 妻は名が不詳[注釈 1]。張?の投降後、曹操の側室となった。このため張?は曹操に対し憎しみさえ抱いている。
生涯
妻について
脚注^ 小説『三国志演義』では「鄒氏」の名で登場する。
出典^ 陶弘景『真誥』巻12・稽神枢第2
^ 『後漢紀