張栩
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張栩(ちょう う、チャンシュイ、 1980年1月20日 - )は、日本棋院所属の囲碁棋士九段林海峰名誉天元門下。小林光一名誉三冠義父にあたる。

史上初の五冠王、史上2人目のグランドスラム達成、通算七大タイトル獲得数歴代5位、3大タイトル獲得数歴代6位、棋道賞最優秀棋士賞7回(歴代2位タイ)、王座位獲得数歴代2位など多数の記録を保持。4年連続通算7回の賞金ランキング1位(2003-05・07-10年)。

 張栩 九段
名前張栩
生年月日 (1980-01-20) 1980年1月20日(44歳)
プロ入り年1994年
出身地台湾台北市
所属日本棋院東京本院
師匠林海峰
段位九段
概要
タイトル獲得合計41
七大タイトル
棋聖3期 (2010-12)
名人5期 (2004-05・07-08・18)
本因坊2期 (2003-04)
王座7期 (2003-05・08-11)
天元1期 (2008)
碁聖4期 (2006-09)
十段2期 (2009-10)
世界タイトル
LG杯優勝 (2005)
TVアジア選手権優勝 (2005)
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張栩
プロフィール
出生: (1980-01-20) 1980年1月20日(44歳)
出身地: 台湾台北市
職業:囲碁棋士
各種表記
繁体字:張栩
簡体字:?栩
?音:Zh?ng X?
ラテン字:Ch? U
和名表記:ちょう う
発音転記:チャンシュイ
英語名:Cho U
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来歴
生い立ち

6歳半の時、囲碁塾を経営していた父から碁を学ぶ。あまり経済的に余裕のある家庭ではないにもかかわらず父は全てを犠牲にして張の囲碁上達をサポートした。父は張に囲碁を教える前に3歳頃からトランプチェス中国将棋など様々な頭脳ゲームを教えた。最初から囲碁を教えるつもりだったがまだ流石に幼かったのでまずは簡単なゲームから「考える力」を身につけさせた。父の指導による勉強量は半端ではなく、普通の子供が1年かけて学ぶようなことを2・3か月でやっていた。囲碁を覚えて1年後には台湾のアマ初段(日本でのアマ三、四段ほど)になり周囲から天才少年と騒がれた[1]

小学校には生徒の数が少なかったので早めに入学させても構わないだろうと5歳半から入学していた。2年生か3年生の時に1年間休学しその間ずっと碁の勉強をしていた。やがて子供の大会では物足りなくなって十傑戦という台湾全土の大会に出場し7位に入賞した。8歳の頃新聞の特別企画で対局した作家の沈君山の紹介で台湾のプロ棋士・陳国興の弟子となる。そしてこの陳の紹介で林海峰(現・名誉天元)と出会う[1]

10歳になる頃には台湾の同世代ではトップとなり、プロ棋士になるための日本行きの話が持ち上がった。当時の台湾囲碁界はまだプロ棋士制度が整備・確立されておらず、囲碁で身を立てるためには日本でプロになるという流れができていた。林海峰王立誠九段・王銘?九段に続くと台湾棋界から大きな期待を受け、自身の意志というより行く以外の選択肢が無いという状況になっていった[1]
来日・入段

10歳半で来日し、林海峰内弟子となる。この時「日本で絶対にプロにならなければならない」という使命感を背負っていた。しかし日本の院生のレベルの高さ(来日前には台湾のトップ棋士相手に少しハンデを貰えれば勝負になっていた)にも衝撃を受けた。当時の院生にはのちにライバルとなる山下敬吾溝上知親秋山次郎蘇耀国らがいた(4人とも現九段)[1]

AクラスとBクラスを行き来きする繰り返しで思うように成績も伸びず、また林海峰の指導方針は「自分で考える」というものだったので、今まで父親や囲碁塾の先生から勉強を指示されて勉強してきた張は何をすべきか分からなくなり大いに戸惑った。さらに日本語が分からない中での緊張感のある生活でどんどん追い込まれていった。当時ともに林の内弟子として暮らしていた林子淵(現・八段)とお互い慰めあっていたがやはり競争相手でもあるため悩みを話すことは出来なかった[1]

また蘇耀国との出会いも衝撃的だった。中国出身で張と同学年だったがその溢れんばかりの才能に驚かされた。普段はイタズラとケンカばかりしてるヤンチャ坊主なのにいざ碁盤に向かうと非常に才能を感じさせる碁を打った。プロになるまで台湾には帰らないことになっていたので日本に来てから家族にも会っていなかった。両親に心配かけまいと悩みは自分の中だけに抱え込んでいた。そんな13歳の時に母親が経済的に大変なのにもかかわらず日本に来てくれた。張が悩んでいることを知ると「囲碁、やめてもいいよ」と言ってくれた。当時アメリカにいた姉と一緒に勉強する道も示してくれた。そのことを林師匠に相談すると台湾の父親に連絡を取り、その1か月後に来日して改めて話し合うことになった[1]

そして次のプロ棋士採用試験の受験を最後の受験にすることにした。結果は10勝7敗の6位。普通であれば落選決定だがこの年だけ特別に採用人数が1人多く敗者復活戦があった。東京地区の次点者(5位・6位)と中部・関西の次点者を加えた4人で試験を行うことになった。この試験で1位になりなんとか入段することが出来た[1]

学校の成績は良かったが、東京中華学校中学部卒業後は、囲碁専念のため進学しなかった。中学卒業後に一人暮らしを始めて一人の時間が多くなったが、当時はインターネット対局がなかったため実戦ができず、棋譜並べもあまり好きではなかったため、詰碁の創作を始めた。また自分が棋士として存在した証を残したいという思いもあった[1]
名人本因坊

2000年、1歳年上のライバルの山下敬吾が七大タイトル碁聖を21歳で獲得する。それまでタイトル保持者はベテランの棋士や10歳近く年上の先輩と相場が決まっていたのでそこに風穴を空けた山下は張たちにとって衝撃だった。当時は高尾紳路(現九段)・蘇耀国・溝上知親と研究会を行っていたが打倒山下に燃えていた[1]。第25期棋聖戦リーグ・第56期本因坊戦リーグ入り。

2001年、第56期本因坊挑戦者決定リーグ戦で5勝2敗で1位となり挑戦権を獲得。5月から7月の王銘?本因坊への挑戦手合では第7局までもつれるも3勝4敗で敗退。

2002年12月、第58期本因坊挑戦者決定リーグ戦で6勝1敗となり王銘?王座とのプレーオフになる。

2003年4月7日の本因坊リーグプレーオフでは王銘?王座に5目半勝ちし2年ぶり2度目の本因坊位挑戦となる。7月11日、加藤剱正本因坊との挑戦手合では1勝2敗のあと3連勝し初の七大タイトルとなる本因坊を獲得した。さらに王座を獲得。

2004年名人位を獲得し、史上5人目の「名人本因坊」となる。「名人本因坊」の最年少記録を更新(当時)。10月、第52期王座防衛戦ではライバル・山下敬吾九段との初の挑戦手合が行われた。3-1で防衛に成功。その後高尾紳路にいったん名人位を奪われるものの、2007年に奪回。
五冠・グランドスラム

2008年8月、第33期碁聖防衛戦で山下敬吾棋聖に1敗のあと3連勝し碁聖位3連覇。10月には第47期十段戦で二十五世本因坊治勲黄翊祖七段を破り挑戦者となる。11月6日には第33期名人防衛戦で史上最年少の挑戦者井山裕太八段(19)を4-3で降して名人防衛を果たす。15日、第15期阿含・桐山杯決勝で高梨聖健八段に勝利し優勝・3連覇。12月4日、第34期天元戦で3連覇中の河野臨天元に3-0で勝利し初の天元位。8日、第56期王座戦で山下敬吾王座に3-1で勝利し3期ぶり通算4期の王座位。そして史上4人目となる七大タイトル四冠になる。

明けて2009年4月16日、第47期十段戦で高尾紳路十段を3-1で破りタイトル奪取。史上初の五冠(名人・十段・天元・王座・碁聖)を獲得した。 この五冠のあと足の帯状疱疹に悩まされていた。激痛が続き数か月はまともに歩けない状態が続いた。この頃自己最多の17連勝を記録した。 10月、第34期名人位はリーグを8戦全勝で通過してきた井山裕太八段(20)が再び挑戦してくる。


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