張昭
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この項目では、政治家について説明しています。実業家については「張昭 (実業家)」をご覧ください。

張昭


輔呉将軍・婁侯
出生永寿2年(156年
徐州彭城国
死去嘉禾5年(236年
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子布(しふ)
諡号文侯
別名張公
主君孫策孫権
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張 昭(ちょう しょう)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家・武将。は子布。は文侯。徐州彭城国の人。妻は孫氏[1]。子は張承張休・他一名。
経歴
若き日

若い頃から学問に励み、隷書に巧みで、智謀に長けていた。白侯子安という人物から『左氏春秋』を教授され、その他にも広く書物を読んだ。やがて王朗趙cと並んで高い名声を得て、互いに親しく交友した。

20歳前後で孝廉に推挙されたが、都に出仕しなかった。王朗と旧君の諱についての議論を交わし、陳琳ら同郷の人々の注目を集めた。その議論は『風俗通』という書籍に記録された。

徐州刺史陶謙から官途に就くよう茂才に推挙されると、張昭はこれを拒絶した。そのため陶謙にこれを恨まれて投獄されたが、趙cの弁護によって助けられた。後年に陶謙が死去すると、張昭は彼のために弔辞を記し、その功徳を称えている[2]
孫策に仕える

董卓の専横などで中央が乱れると、その混乱を避けて江南に移住する。孫策揚州で挙兵した時、その参謀として招かれた。孫策は張昭を得たことを喜び、長史・撫軍中郎将に任じ、師友として遇した。その信任は厚く、孫策は張昭の家に赴いて母親に挨拶するなど、家族同然の付き合いをした。

張昭に北方の士大夫から手紙が届くと、それらはいつも彼の手柄を褒めるものばかりだった。手紙のことを黙っていれば北方の人々と密かに連絡を取っていることになり、公表すれば自分への称賛を自慢することになり、どうすれば良いか決断しかねていた。孫策はこのことを意に介さず、桓公管仲に全てを委ねた故事に倣い、張昭に文事武事の一切を委ねた。

孫策は参謀として張昭の他、張紘秦松・陳端といった人物を登用していたが[3]、出陣の際は張昭か張紘のどちらか一人を伴い、どちらか一人には留守を任せた[4]。部将のケ当が死去すると、その義弟である呂蒙を後任として推挙した[5]

建安5年(200年)、孫策の臨終に際してその枕元に呼ばれ、弟の孫権を補佐するよう委任された。この時、孫策は孫権に「内政のことは張昭に相談せよ」と命じ、また張昭に「もし仲謀(孫権の字)が仕事に当る能力がないようならば、あなた自身が政権を執ってほしい」と述べた[6]
孫権を補佐する

孫策の死後、朝廷に孫権が跡を継いだことを上表した。張昭は孫権が配下の将や城を統率したものの、その死を悲しみしばらく政治を執ろうとしなかったことを叱咤し、馬に乗らせて兵士を率いさせた。このことで人々は、孫権が後継者になったことを認知するようになった。孫権政権下では引き続き長史を務めた。孫権自身が出陣した時は留守を守り、幕府の事務を処理した。孫権が当主になったばかりの時は、孫氏の勢力が不安定なものになっていたので、張昭は兵士・豪族・民の気持ちを安定させると共に、時には自身が軍勢を率いて反乱平定や賊討伐に赴いた。孫権には張公と呼ばれ、厚い信頼を受けた[7]

張紘と共に外交文書など、文書の起草にあたったが、文才では張紘には及ばなかったと言われる。陳琳は張紘に送った手紙で「こちらにいる王朗殿、そちらにいる貴方と張昭殿に、私などは到底及ばない」という旨を述べ、その文才は張紘と並んで称えられている[3][4]

孫策と孫権の生母である呉夫人は臨終に際し、張昭らを招いて後事を託した[8]
呉の成立

建安12年(207年)、劉表軍の黄祖陣営から甘寧が投降してきた。甘寧は孫権に西上して黄祖を討つことを勧めた。張昭は反対したが、甘寧に反論され、孫権もまた甘寧の意見に賛同した[9]

建安13年(208年)の赤壁の戦いでは、曹操軍の圧倒的兵力の前に衆寡敵せずと、秦松ら多くの家臣たちと共に降伏を進言した。結局、孫権は周瑜魯粛の言に従い曹操を撃ち破るのだが、このことは後年まで尾を引いた。孫権は帝位に即くに及び百官を呼び集めた席で、自分が即位できたのは周瑜のおかげだと述べた。張昭がこれに同意して周瑜を称賛しようとした矢先、孫権は「もしあの時、張公の(赤壁の戦いで曹操に降伏する)進言を聞いていたら、今頃は乞食になっていただろう」と続け、張昭は恥じ入るばかりだった。

赤壁の戦いの直後には、孫権の合肥攻撃に連動し、別動隊を率いて匡gを討伐。さらに部将たちを率いて、豫章郡の賊頭の周鳳を南城に攻め、これを撃ち破った[10]。それ以降は張昭がみずから軍を指揮することは稀になり、常に孫権の傍にあり策謀を用いて貢献した。曹操を退けた後に、孫権が劉備の推薦で車騎将軍に任命されると、その軍師となった。また、劉備配下の諸葛亮を孫権に推挙したが、諸葛亮からはその下に留まることを断られたという逸話もある[11]

孫権は騎馬に乗り虎を射ることを好んでいたが、ある時、虎に反撃され、馬の鞍に飛びつかれた。それを見た張昭は「君主は優秀な群臣を使いこなすもので、野原で獣と勇を競うものではない」と孫権を叱責した。これ以後、孫権は馬上で虎を射るのではなく、箱に穴を開けた車(木製の装甲車のようなもの)から虎を射て遊んだ。また、獣が車に近づいてきた時は、孫権手ずから倒すことを好んだ。


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