張徳昌
張徳昌中将(1957年4月22日、台湾・台北松山空港)
生誕 (1903-05-09) 1903年5月9日
大韓帝国平安北道義州郡
死没1972年7月11日(1972-07-11)(69歳)
大韓民国ソウル特別市
墓地国立ソウル顕忠院将軍第3墓域3号
国籍 大韓帝国
日本統治下朝鮮
大韓民国
配偶者井上順子
飛行経歴
著名な実績日本で2番目の朝鮮人パイロット
空軍 大韓民国空軍
戦争朝鮮戦争
階級中将
受賞航空章、太極武功勲章
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張徳昌
各種表記
ハングル:???
漢字:張コ昌
発音:チャン・ドクチャン
日本語読み:ちょう とくしょう
ローマ字:Chang Deok-chang
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張 徳昌(チャン・ドクチャン、???、1903年5月9日-1972年7月11日)は大日本帝国の飛行機操縦士であり大韓民国の軍人。韓国空軍創設者の1人。創氏改名時の日本名は華山徳昌[1]。 1903年5月、平安北道義州郡に生まれる。7歳の時にソウルに移住。1917年にアート・スミスの曲芸飛行を見て飛行士になる決心をした。1919年3月に養正高等普通学校
人物
1921年11月29日、伊藤飛行機研究所第1期卒業[3]。
1922年4月に三等操縦士の免許を取得[4]、安昌男に続き2番目の朝鮮人飛行士となる。同年6月、三等操縦士飛行競技会が開催され、伊藤式90馬力で高度飛行競技に参加した[5]。成績は1490メートル(59分)で等外であった[6]。慰労金で張に120円が贈られた。同月、日本航空輸送研究所に入所[7]。井上長一に師事し、勤務中に井上の娘の順子と結婚する[1]。
1922年10月、日本航空輸送研究所は三重県水産講習所と提携して日本初の魚群探査飛行を実験することになり、浜島町海岸を基地にして横廠式イ号ベンツ130馬力機を用いて、張が講習所員や漁夫を交代で乗せて熊野灘を飛行した[8]。150?300メートルの高度で万遍なく飛び、サンマやイワシの大群を機上から伝書鳩を使って本部に通告し、また魚群上を旋回して付近の漁船を誘導するなど、最初の試みは成功だった[8]。
1923年、二等操縦士の免許取得。同年4月3日、岸和田町が市に昇格した記念祭に横廠式千鳥号で祝賀飛行した[9]。
日本航空輸送研究所は、張徳昌、井口實、長尾一郎、久保田亀之助によって週3回の大阪-高松間、週2回の大阪-徳島間を休みなく飛んでいた[10]。1924年6月1日付で、そろって一等飛行機操縦士の航空免状を交付された[11]。
1924年8月、高知県の種ア浜および須崎浜で高知水産試験所と提携して太平洋岸に魚群探見飛行を実施した[12]。1回目でハマチの大群、4回目でカツオの密集群を見つけるなど成績は向上した[12]。この飛行で発見魚群の所在と種類と書いた報告浮標を出動中の水産試験所試験船に投下して知らせる方法も試みた[12]。同年12月、伊勢湾周回懸賞飛行競技に参加[13]。成績は等外で10位だった[14]。
1925年6月、大阪朝日新聞の後援で民間航空初の朝鮮横断飛行が行われた[15][16]。