この記事には複数の問題があります。改善
やノートページでの議論にご協力ください。張宗昌
プロフィール
出生:1881年2月13日
(清光緒7年正月15日)
死去:1932年(民国21年)9月3日
中華民国山東省済南
出身地: 清山東省莱州府掖県
職業:軍人・政治家
各種表記
繁体字:張宗昌
簡体字:?宗昌
?音:Zh?ng Zongchang
ラテン字:Chang Tzung-ch'ang
和名表記:ちょう そうしょう
発音転記:ジャン ゾンチャン
テンプレートを表示
張 宗昌(ちょう そうしょう)は、中華民国の軍人。北京政府、奉天派の有力者、山東省の支配者で、詩人として知られる。字は効坤。 幼年期から青年期にかけては無頼漢として育つ。辛亥革命後から民兵として活動したが、1913年(民国2年)の二次革命(第二革命)では、馮国璋の配下となった。1916年(民国5年)春に陳其美が上海で蜂起すると、張は配下の営長を派遣して陳を暗殺した。この功績により、馮から抜擢されるようになる。同年11月に馮が副総統に就任すると、張は侍従武官長に任命された。 護法戦争が勃発すると、1918年(民国7年)に、張宗昌は蘇軍(江蘇軍)第6混成旅旅長に任命される。江西省へ出征したが、南方政府軍に大敗してしまう。1921年(民国10年)には、軍そのものを運営し得なくなり、江西督軍陳光遠に軍を解散させられた。張はただ1人で北方へ逃亡した。 その後、直隷派の指導者となっていた曹?に任用されようと願ったが、呉佩孚の反対で失敗に終わる。そこで張宗昌は、奉天派の張作霖を頼った。1922年(民国11年)、張宗昌は、張作霖に叛旗を翻した反乱軍を撃破して、その敗残軍を吸収する。さらに同年冬には、中国国内に逃走してきていたロシア白軍も吸収した。これにより張宗昌は、奉天派でも有力軍人と見なされるようになった。 1924年(民国13年)の第2次奉直戦争では、張宗昌は鎮威軍第2軍副軍長に任命され、軍功をあげた。戦後、段祺瑞による執政政府が樹立されると、張宗昌は宣撫軍第1軍軍長に任命され、上海に駐屯した。1925年(民国14年)2月、張宗昌は蘇皖魯三省剿匪総司令に任命され、徐州に駐屯した。そして、張作霖の後押しもあって、同年4月、張宗昌は山東軍務督弁に任命された。
事跡
奉天派での台頭
狗肉将軍