張学良
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張 学良
Chang Hsueh-liang
1928年
生誕1901年6月3日
盛京将軍管轄区錦州府広寧県(現:遼寧省鞍山市台安県桓洞鎮)
死没 (2001-10-15) 2001年10月15日(100歳没)
アメリカ合衆国 ハワイ州ホノルル
所属組織 奉天軍閥(1919 - 1928)
国民革命軍(1928 - 1936)
軍歴1920 - 1936
最終階級 一級上将
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張学良
職業:軍人政治家
各種表記
繁体字:張學良
簡体字:?学良
?音:Zh?ng Xueliang
ラテン字:Chang Hsueh-liang
注音二式:J?ng Shiueliang
和名表記:ちょう がくりょう
発音転記:チャン シュエリャン
英語名:Peter Hsueh Liang Chang
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張 学良(ちょう がくりょう、チャン・シュエリャン、1901年6月3日光緒27年4月17日〉 - 2001年10月14日)は、中華民国軍人政治家張作霖の長男で、張学銘張学思の兄である。は漢卿。軍人時代の最終階級は国民革命軍一級上将。
青年時代

1901年、張学良は当時満洲地方(現地名:遼寧省台安県)の馬賊であった張作霖の長男として台安県桑樹林子郷にて出生[1]。母親(趙春桂)は不明な点が多く、張学良11歳の時に死去とされる。父・作霖に可愛がられ、大勢の家庭教師が付き高い教養を身につけた。16歳からは英会話も習得し、後に中国の軍閥の頭領としてはただ一人の英語の使い手となるがリットン調査団の一員であるドイツ人ハインリヒ・シュネーによると、「英語は少し話せるが、複雑な問題は交渉できなかったので必ず通訳を付けていた」という[2]。14歳の時に最初の結婚をさせられ、15歳の時に第一子が誕生。

1919年3月、父の創設した軍幹部養成学校である東三省講武学堂の一期生として入学。当時の教官は郭松齢であった。若い頃から記憶力が良く、300名以上の学生の姓名、出身地、字を暗記していた。また、試験で一番を取った時、父親との関係で不正をしていると疑われたが、生徒の席同士を離してカンニングが出来ないようにしてから試験を行った結果、ようやく実力を認められたという。

20歳の時訪日したが、同年生まれで当時皇太子だった昭和天皇と容姿が似ていると周囲に驚かれたという[3]。初めは人を救う医者になりたいと思っていたが、結局は人を殺す軍人になってしまったと後に述べている[3]
北洋政府
武官時代

在学中の1919年12月、父の義弟である張作相の抜擢で東三省巡閲使署衛隊旅営長となり、第2団長を経て1920年3月、19歳で東三省講武学堂を卒業し[4]、同年6月、混成第3旅旅長に任ぜられた。年末には陸軍少将に昇格[5]郭松齢の混成第8旅と訓練および運営を共有するが、軍事知識に乏しいため両旅とも実質的な運営は郭が取り仕切っていた[5]。また、郭の提言で東三省講武学堂の拡充に努め、将兵の中でも特に秀でた者の選抜育成のため、軍官教育班・軍官教導団および軍士教導隊を設置[5]。西安事変の時には陸軍一級上将になっていた。これは?介石に次ぐ中国の最高軍事指導者の地位である。

満洲奉天軍閥、父・作霖と共に大日本帝国に協力的であった。1920年に安直戦争が勃発すると19歳の張学良は軍を率いて直隷派の救援に向かい、側近の郭松齢の補佐のもと、安徽派軍を大破し彼の名声は大いに上がった。その後、1922年第一次奉直戦争では、郭とともに奮戦。しかし、練度が不足していた奉天派は大敗。秦皇島にて孫烈臣とともに和平交渉代表として出席(直隷派代表は王承斌)。父張作霖が東三省陸軍整理処を創設すると、保安司令部参謀長に任ぜられる。のち孫烈臣が総監を辞し、後任に姜登選がなると副監。1924年第二次奉直戦争でも呉佩孚の部隊を破るなどの活躍し奉天軍閥内で強い影響力を持つようになった。当時、奉天軍閥には2つの派閥があった、一つは楊宇霆ら馬賊時代からの側近からなる派閥であり、もう一つは張学良、郭松齢ら東三省講武学堂を卒業した若手の派閥である。両者は対日政策などをめぐり対立していた。そんな中、張作霖の親日的態度に不満を持った郭松齢が反旗を翻すと、説得に赴き、郭が捕らわれてもなお寛大な処置を求めていた[6]。やがて郭松齢が楊宇霆によって処刑され、その死体が晒されたと知ると、楊を激しく憎む。彼の軍も張作霖直轄軍に加わり張学良は名実共に張作霖に次ぐ実力者となった。

なお1924年12月14日、天津を訪れた孫文と対面[7]
奉天軍閥張作霖爆殺事件により破壊された車両

1928年6月4日、父・作霖が関東軍河本大作による張作霖爆殺事件により死亡すると、張学良は側近達の支持を取り付け奉天軍閥を掌握し、亡父の支配地域・満洲を継承した。父が殺された日が張学良の誕生日であったため、それ以降彼は生涯にわたって誕生日を一ヶ月繰り上げて祝った。当時、?介石率いる北伐軍が北京に駐留し奉天軍閥との間に緊張が走っていたが、易幟青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明すること)することを条件に満洲への軍事・政治への不干渉を認めさせ、独立状態を保つことに成功する。日本は林権助を派遣して張の翻意を試みたが失敗した。ただし張は日本との決定的な対立を避け、日本を軟化させた。またこの年、総理大臣への野心を持っていた床次竹二郎を支援するため、前奉天領事赤塚正助、代議士鶴岡和文を通じて50万元を床次に献金している。
国民政府
中東鉄路

1929年1月には、以前より対立していた楊宇霆ら旧臣たちを反逆者として処刑し権力と地位を不動のものとし、富国強兵策を採り軍事、金融、教育などの近代化を進めた。彼は次第に自信を深め、同年7月にはソビエト連邦が保持していた中東鉄路を接収したことをきっかけに武力衝突を起こし大敗した(中ソ紛争)が、中原大戦では9月18日に?介石への支持を表明(通電擁?)、山海関に出兵し河北省、ついで北平を制圧。勢力を伸張し?介石に次ぐ実力者と目されるようになった。
満洲事変北平の陸海空軍副司令行営に到着直後の張学良(中央の人物、1931年4月18日[8]張学良夫妻とエッダ・ムッソリーニ(1931年2月、乾清門(中国語版)にて)

1931年に入ると満洲でも左派勢力に煽られた抗日運動が活発化し関東軍や在満邦人の強い反発をかっていた。関東軍が満洲への武力侵攻を決め、軍を続々と集結させているときはいつもの軍事演習だと思い、何の対策も取らなかったと言う。

満洲事変が勃発した時、彼は北平にいたが、日本軍侵攻の報告を受けると日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判断したことや平和解決を望んだということ、日本にとって国際的な非難を浴びるなど好ましくない結果をもたらすだろうと考えたと後に述べている[3]

日本と積極的に戦わず退いたこと自体は国民政府の方針通りであった。この時期?介石は下野していたが、?の意向も同じであった。これは国共内戦のため対日戦に兵を割く余裕が無かったことと、日本が全面戦争に踏み切るとは予期していなかった為である。ところが、日本は満洲全域を占領したため、抗戦を主張した汪兆銘は張を批判し、張は「不抵抗将軍」と内外で蔑まれた。

その後、アヘン中毒の治療もかねてヨーロッパを歴訪し、イタリアムッソリーニドイツゲーリングに面会し、ファシズムの影響を受け、中国も強い指導者が必要と思うようになった。


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