張天錫
[Wikipedia|▼Menu]

悼公 張天錫
前涼
第9代君主
王朝前涼
在位期間
363年 - 376年
姓・諱張天錫
字純?
諡号悼公
廟号無
生年建興34年(346年
没年義熙2年(406年
張駿
母劉美人
年号升平363年 - 376年

張 天錫(ちょう てんしゃく)は、五胡十六国時代前涼の第9代君主。は純?。小名は独活。第4代君主張駿の末子。母は劉美人。
生涯
若き日

建興34年(346年)、張駿の末子として生まれた。和平元年(354年)1月、兄の張祚が涼王を称すると、長寧侯に封じられた。建興49年(361年)9月、中領軍に任じられ、中護軍張?と共に、まだ幼かった甥の張玄?の輔政にあたった。張?は傲慢かつ勝手な人物でり、徒党を組んで政治を専断し、多くの人を処刑したので、当時の人々はこれを嘆いていた。張天錫の腹心である郭増・劉粛は、「張?の横暴ぶりは、かつての君主であった張祚を思い起こさせるほどです」と訴えると、張天錫は張?の暗殺を決意した。

そして11月、張天錫は兵400を伴って入朝し、張?と出くわすと腹心の劉粛・趙白駒が即座に斬りかかったが、逃げられてしまい兵300を集めて反撃された。しかし張天錫は屋根の上に登ると、「張?は凶逆にして無道をなしている。我は死を惜しんではおらぬが、先人の祭祀が廃されることを恐れ、ここに至った。今日誅殺するのは張?一人である。他の者達は罪を問う事はない。我は約束は破らぬ」と叫んだ。これを聞き、張?の兵はみな逃散してしまった。張?は自殺し、その一族郎党はみな誅殺された。
朝権を握る

張玄?は張天錫を使持節・冠軍大将軍・都督中外諸軍事に任じ、輔政を委ねた。張玄?はまだ幼く、その性格は仁弱であったので、張天錫が政治を専断するようになった。12月、張天錫は張祚の代を挟んでそれまで前涼で代々用いられてきた「建興」の年号を改め、升平5年として東晋の定めた年号に合わせた。升平7年(363年)8月、張玄?の母の郭氏は張天錫の専横を憎み、大臣の張欽らと謀って張天錫の誅殺を目論んだが、この計画は事前に露見し、張天錫は張欽らを尽く誅殺した。張玄?はこれを大いに恐れ、位を張天錫へ譲ろうとしたが、張天錫は受けなかった。

同月、右将軍劉粛らは議して、張玄?が幼沖であり国家は多難である事から、長君が立つべきであると述べ、張天錫へ自立を勧めた。張天錫はこれに同意し、劉粛らに兵を与えて夜のうちに入宮させると、張玄?を殺害させた。その後、張天錫は張玄?が急死したと宣言した。
君主に推戴

国の人は張天錫を主君に推戴し、太廟において拝謁した。嫡母(父の正妻)である厳氏を太王太后に立て、生母である劉氏を王后[1]に立て、張玄?を平陵に葬り、沖公[2]と諡した。また、自ら使持節・大都督大将軍・護羌校尉・涼州・西平公・涼王[3]を号した。さらに、司馬綸騫に上表文を携えて東晋に派遣してその命を請うと共に、侍御史兪帰(張重華の時代に到来した東晋からの使者)を送り届けた。

即位した張天錫は東晋からは大将軍・大都督・隴右関中諸軍事・護羌校尉・涼州刺史・西平公、前秦の君主苻堅からは大将軍・涼州牧・西平公に、それぞれ任じられる二重の服属という状態となった。しかし即位後の張天錫は、音楽や酒・女に溺れて夜遅くまで遊び惚け、政治を省みる事が無かった。

升平9年(365年)1月、張天錫は元日にもかかわらず、寵臣とだらしなく飲み騒ぎ、群臣からの朝賀を受けなかった。また、永訓宮に留まって朝廷にも顔を出す事がなかった。從事中郎張慮は棺を担いで決死を覚悟してその振る舞いを諫め、朝政を観るように請うたが、張天錫は従わなかった。少府長史紀瑞もまた上疏し、その時政について「臣が聞く所によりますと、東野はよく御してその駕を敗り、秦氏は富強となって国を覆しました。馬力は既に尽き、これを求めたならば休むことも出来ません。人は既に疲労して枯渇し、死人には労働は出来ません。造父(中国語版)(穆王に仕えた名御者)の御では馬は尽きる事無く、虞舜の治では、人が窮する事はありませんでした。故に造父は御を失せず、虞舜は人を失いませんでした」と諫めたが、張天錫は聞き入れなかった。

升平10年(366年)10月、張天錫は前秦へ使者を派遣し、国交の断絶を通達した。以前、前涼に背いて隴西に割拠していた李儼は前秦の傘下に入っていたが、張天錫の時代になると再び前涼とも通じるようになった。
前秦への称藩

12月、羌族の斂岐率いる一団は、前秦から反旗を翻して益州刺史を自称し、部落4千家余りを引き連れて西方に割拠していた李儼に臣従した。これを機に、李儼は前秦とも前涼とも国交を断絶した。升平11年(367年)、前秦の輔国将軍王猛らが斂岐討伐に向かうと、これに乗じて張天錫は李儼討伐の兵を挙げ、自らも3万の兵を率いて出陣した。前秦の王猛は略陽を攻略して斂岐を捕え、また張天錫も大夏・武始の2郡を攻略し、さらに常據は葵谷において李儼軍を撃破した。張天錫はさらに軍を進めて左南に駐屯したが、李儼は恐れて枹罕まで後退し、甥の李純を前秦へ派遣し、謝罪して救援を請うたため、前秦が李儼の援軍として参戦する事となった。

前涼軍は王猛らが率いる前秦軍に大敗し、捕虜・斬首併せて1万7千の兵を失い、前涼側の将軍も捕虜にされるという大損害を被った。その後、張天錫は枹罕城下において王猛と睨み合いの状態となったが、ここで王猛は「我が受けた詔は李儼の救援のみであり、前涼と交戦する事ではない。こうして膠着状態となっても、互いに疲弊するだけで良策ではない。もし将軍が退却するのであれば、我が軍も撤退しよう」との手紙を送り、これを読んだ張天錫は軍を撤退させた。その後、王猛は前秦軍の立ち寄りを拒んだ李儼を捕らえ、枹罕を陥落させた。

升平15年(371年)4月、前秦の君主苻堅は、捕虜としていた前涼の将軍の陰拠と兵5千を前涼に返還した。この時、前秦の王猛は張天錫に対し「我が大秦(前秦)は既に関中以東を平定しており、この兵をもって攻め込めば、前涼は抵抗できないであろう。先祖代々の功業を、一代で地に堕とすべきではなかろう」との書状を送り、前秦の傘下に入るよう仕向けた。この書を見た張天錫は強く恐れを抱き、苻堅に謝罪して称藩を告げる使者を派遣した。苻堅はこれを認め、張天錫を使持節・都督河右諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・涼州刺史に任じ、西平公に封じた。
東晋と通じる

12月、苻堅は河州刺史李弁を涼州に移らせ、前涼との国境沿いの金城を統治させた。張天錫は前涼征伐の準備ではないかと考え、この動きに強く不安を抱いた。そのため、東晋との修好を強めようと思い、典軍将軍張寧・中堅将軍馬?らを派遣し、東晋の三公と盟約を交わした。また、従事中郎韓博・奮節将軍康妙を東晋朝廷に派遣して表を奉じて盟文を送り、大司馬桓温に書を献じ、升平16年(372年)の夏[4]上?に集結して共に前秦を討つ事を誓い合った。

梁景・劉粛はともに豪族の家柄であり、幼少期より張天錫と親しかった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:20 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef