張勲_(清末民初)
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中華民国政治家張 勲Zhang Xun

生年月日1854年1月31日
咸豊4年12月14日
出生地 江西省南昌府奉新県
没年月日 (1923-09-12) 1923年9月12日(69歳没)
死没地 中華民国 直隷省天津市
清(張勲復辟)
議政大臣(中国語版)
在任期間1917年7月1日 - 1917年7月12日
皇帝宣統帝
清(張勲復辟)
北洋通商大臣
在任期間1917年7月1日 - 1917年7月12日
皇帝宣統帝
清(張勲復辟)
直隷総督
在任期間1917年7月1日 - 1917年7月12日
皇帝宣統帝
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張勲
職業:軍人政治家
各種表記
繁体字:張勳
簡体字:??
?音:Zh?ng X?n
ラテン字:Chang Hsun
注音二式:J?ng Shi?ng
和名表記:ちょう くん
発音転記:ジャン シュン
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張 勲(ちょう くん)は、清末民初軍人政治家。革命後も清朝に忠節を尽す。(あざな)は少軒。号は松寿老人。
事績

袁世凱死後の1917年(民国6年)、混迷する新政府の動きを見て、すでに退位していた先帝の溥儀を担ぎ、再び即位させて帝政の復古を宣言。いわゆる張勲復辟(ふくへき)事件に発展した。
略歴
清末の事績

軍歴の開始はかなり遅く、1884年光緒10年)に初めて長沙で兵士となった。その後、広西提督蘇元春配下となり、1891年(光緒17年)に参将となっている。1894年(光緒20年)、宋慶の毅軍配下として奉天に駐留している。翌1895年(光緒21年)に天津へ異動して袁世凱配下となり、工兵営管帯に任ぜられた。1899年(光緒25年)、山東へ赴き義和団鎮圧に貢献、副将・総兵に昇進している[1]

1902年(光緒27年)、張勲は北京へ異動し、西太后(慈禧)と光緒帝の警護の任に就いた。1906年(光緒32年)、再び奉天に赴任し、奉軍遼北総統として昌図県に駐留している。その2年後には雲南提督・甘粛提督に次々と任ぜられたが、実際には就任せず昌図に駐留し続けた。1910年宣統2年)、南京浦口へ異動し、江防営を統率することになり、更に1911年宣統3年)8月には江南提督へ昇進している[1]

同年10月、南京に駐留していた新軍第9鎮が武昌起義辛亥革命)に呼応して蜂起すると、張勲は両江総督張人駿の召喚に応じて南京城へ急行、革命軍を雨花台で迎撃してこれを一時は退けた。しかし次第に革命派が勢力を増強していき、それでも張勲は紫金山などで頑強に抗戦したが、12月には衆寡敵せず徐州へ後退を余儀なくされている。その後、張勲は清朝から江蘇巡撫に任命され、更に両江総督兼南洋大臣に昇進した[1]

1912年民国元年)1月に中華民国が成立したが、張勲は依然として反革命の姿勢を堅持し、宣統帝への忠義を保った。翌月、袁世凱が中華民国大総統代理に就任すると、不承不承ながら張勲は武衛前軍としての再編を受け入れ、山東省兗州に駐屯している。しかし若き頃からの苛烈な性格からか、近代化の世に至ってもなお洋装を嫌い、張勲もその配下の兵士も辮髪を切る事は無かった。張勲自身は終生辮髪を切らなかったと言われ、後に「辮帥」(辮髪将軍)と称された[2]
民国成立後

1913年民国2年)4月、張勲は早くも溥儀再擁立を画策したが、事前に計画が漏れたため断念している。袁世凱に反感を抱いた孫文(孫中山)ら革命派が第二革命(二次革命)を起こすと、7月に張勲は袁世凱の命を受け革命派を鎮圧した。9月1日に南京を攻略した際に、3日にわたって放火・略奪・殺戮を縦にしている(1913年南京事件)。鎮圧の軍功により、張勲は江蘇都督に任命され、12月には長江巡閲使に転じて徐州に駐屯した[3]

1915年(民国4年)、武衛前軍は定武軍と改称され、定部上将軍に任命された。同年中に袁世凱が皇帝即位を画策し、実際に即位すると、清朝復権を望んでいた張勲は不満を示すようになる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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